筆不精の備忘録

読書や映画鑑賞の感想を書き留める習慣をつけようと思っていた時期が私にもありました…

「火遊びの後に…」―ノンセクト左派によるフランス大統領選一考察―

フランス大統領第一次選挙が終わり(本稿の執筆日は4月11~13日)、24日に行われる決選投票は2017年の前回同様マクロンVSルペンの一騎打ちとなることが分かりました(フランス大統領選は、一次選で過半数を獲得した候補者がいない場合は上位二名による一騎打ちの決選投票を経て大統領を選出する仕組み)。この結果は下馬評通りで驚きはないものの、実際に判明すると憂鬱な気分にならざるを得ないものではあります。それは過去五年間に現職のマクロン政権が行ってきた数々の悪政にも関わらず左派が団結して対抗勢力を作れなかったからであり、マクロン政治の方向性がまだ未知数だった5年前と比べて全く希望のない決選投票になる見通しだからです。マクロン政治を否定的に捉えているなどこうした見方は副題に示す通り全く偏ったものですが、今回はこの立場を自覚したうえでフランス大統領選に対する一個人の考察を述べてみたいと思います(というか本文章を書いているうちに自分がノンセクト左派であることを再確認する羽目になった)。

フランス政治社会の基底をなすもの

まずは今回の大統領選という政局に限らない、フランス政治社会の大きな趨勢についての大きな見取り図を示してみましょう。こうした見取り図について、私は小田中直樹氏がその著書『フランス現代史』の中で提起する、単なる左右一次元の対立から①経済的次元における左右、②文化的次元における左右、という二次元の区別という視点が有益に思われます(なおフランスでの研究としてはボルタンスキ&カペロ『資本主義の新たな精神』という浩瀚な著書が社会的批判/芸術的批判という類似の二分法を使って、資本主義に対する批判の変遷を詳述しています)。これは政治的左右の対立の中には、従来からの階級対立に見られるような経済的不平等・不公正を争点とする①の次元と、性差別(性的マイノリティの問題を含む)や人種差別(民族・国籍差別を含む)の問題といった文化的不平等・不公正を争点とする②の次元が存在しており、80年代以降の政治の混乱はこの二軸の分化にあるという視点です(そしてボルタンスキ&カペロによればその契機は68年革命にある)。

簡単にいれば、より経済的な平等を求める左派の立場(課税における累進性の強化、資本移動の規制、医療・教育・道路交通など公共サービスや社会保障の拡充など)と、より文化的な平等を求める左派の立場(女性の社会進出、性的マイノリティの権利獲得、各種人種差別的制度の撤廃や人種的・民族的マイノリティの権利獲得など)は、必ずしも一致も団結もしていないということです。社会学徒としてはここで、実際の社会生活においてこれらの問題は複雑に絡み合っていることが普通であり(貧困層における移民出身の母子家庭の割合が非常に多いことは、経済的問題・ジェンダー問題・人種問題のそのどれかではなくそのどれもであるでしょう)、社会における階級関係・ジェンダー関係・人種関係の実際の連関の仕方を捉えようとする「インターセクショナリティ(交差性)」という比較的新しい概念が重視されるようになった背景はここにあると言いたいのですが、本稿では社会的現実ではなくそれが政治的にどのような立場をもって現れるかという点を論じているので、この二次元の区別をひとまず受け入れて論を進めます。

そしてこうした二種類の左派の立場に対する権力層(あるいは右派と一括りに呼ばれる立場)の回答は、右派のうち保守層は基本的に①、②のどちらも受け入れがたいが、自由主義者であれば②を受け入れることやぶさかではないというものです[1]。実際、右派と自認あるいは呼ばれる勢力の中には、(家父長的な家族制度や性別役割分業、温情主義的な経営などに典型的な)旧来型の社会秩序に拘る保守主義と、(飽くなき拡大と競争を是とし、そのためなら従来の秩序を破壊しても構わない)自由主義が混在しており、両者は必ずしも一致しません(むしろ原理的には秩序維持と自由競争というのはほとんど矛盾するものですが現実にはそうならないところに大きな謎があると言える)[2]。そして自由主義(リベラル)という立場が北米や日本ではむしろ進歩派・左派を示すことから分かるように、自由主義的右派と上記②の文化的左派は親和性の高い立場であります。例えば、男女平等や人種・民族的多様性を促進する施策の目的が、(より良い経済パフォーマンスを見込んだ)経済主義的なものであるか社会的平等・公正という価値に基づいたものであるかは問わないというのであれば、この二者の違いを問う事は不可能になります[3]。そしてこうした側面での左右あるいは進歩対保守の対立が強調されることによって見えなくなるもう一つの争点が、上記①の経済的な社会的平等・公正です。

少し回り道をしましたが、現代フランスの政治空間を規定する条件とはこのような社会的文脈です。80年代以降の左右政治の中道化の背景には、高度成長を経た生活水準の上昇や都市化の進展、そしてこうした社会的属性を表現する人々としての新中間層の拡大があります。これは伝統的な保守的右派にとっては自らの支持基盤であった農村や自営業者など旧中間階級の減少を意味し、(経済的な平等を重視していた)伝統的な左派にとってはその構成主体と支持基盤が労働者階級から都市の中間層へ移行したことを意味します。80年代中盤から2000年代初頭のフランス政治は左右中道政党が共に政権を形成する「コアビタシオン(共住という意味)」に特徴づけられますが、左右既存政党(フランスでは左派が社会党、右派が共和党に代表される)の中道化によって経済的次元での左右対立はほとんど見えなくなり(社会党はもはや資本主義の克服を目指していない)、残る文化的側面についてこれら左右の政党は争うことになります[4]。そして文化面については左派がジェンダー問題や人種的マイノリティの問題に取り組み、右派が伝統的な社会秩序やナショナリズムを煽るという形で対立してきました。より積極的な形で排外主義政党として1990年前後から台頭してきたのがジャン=マリー・ルペン(前回と今回決選投票に残ったルペンは彼の娘)率いる国民戦線ですが、右派の共和党も2000年代からは国民戦線のレトリックやアジェンダ設定に乗っかることで党勢を維持・拡大してきました(特に2007~2012年に大統領だったサルコジが典型)[5]

そしてこうした対立軸の移行の裏側には自らの利害を政治的に表現する回路を持たなくなった人々の存在がありますが、「分断された社会」や「新しい貧困層・格差社会」としてしばしば語られるこうした社会層はしかし、階級問題を争点とする政治的な表現を持たないという点では一致しているものの[6]、その内実は全く一枚岩ではありません。左右両翼の先鋭化はその政治的表現の一つではありますが、その他にも政治的無関心層(あるいは諦め)や棄権率の増加は労働者階級・庶民階級の投票行動の大きな特徴です。そして前回選挙時に既存の左右対立を統合すると宣言したマクロンの登場も、こうした左右中道化という事情を背景にしています。

とはいえ、こうした新たな政治勢力の配置は2017年の前回選挙時には既にほとんど明らかとなっていました。前回の大統領一次選では、左右の統合を打ち出したマクロン、排外主義極右のルペン、保守共和党の復興を試みたフィヨン、経済的・社会的不平等の問題を再び政治的争点に持ち込んだ左翼メランション[7]の四者が、20~24%の得票率で(この順で)横並びとなり、二次選でマクロンがルペンを大差(66%)で破り大統領となりました[8]。ここでは政権党であった社会党候補のアモンは6~7%の得票率に沈むことになり、既存の巨大政党としては社会党の一人負けという事態になりました[9]

2017年の選挙後のラジオ番組で政治学者のピエール・ロザンヴァロンが、(おそらくマクロン、ルペン、メランションを念頭に置いて)政党政治の衰退とムーブメントとしての政治勢力の台頭という新たなフランス政治の特徴を指摘しましたが、そこでは党内組織のインフォーマル化、カリスマ的(と見なされた)リーダーへの権力集中、浮遊投票者層の増大などの特徴が挙げられます。そして今回の一次選の結果を見る限り、この五年間でこうした傾向はさらに強まったように思います。

なお、「左右のどちらでもない(左右の対立自体を乗り越える)」と言って登場したマクロンは、社会党オランド前大統領の秘蔵っ子で一時期は社会党員だったこともあり(オランド期に経済大臣を務めていた)初期は中道路線を取るかもしれないと思われていましたが、就任直後の富裕税廃止に加え労働法改革、国鉄改革、年金改革、大学改革などの一連の反社会的な改革によって完全に(富裕層と起業家の利益を体現する)新自由主義者という位置づけになりました[10]。また彼自身の階級蔑視的かつ傲慢不遜な態度(地方外遊中に「仕事がなくて困ってるんです」と言ってきた市民に対して「そこらへんで見つかるでしょう」と言い捨てる!)は多くの国民の怒りを買い、もはや彼を左派を位置づける人は皆無という状況です[11]

一次選の概観

今回の一次選では、マクロン28%、ルペン23%、メランション22%の三者のみが一定の得票を獲得する結果となりました(以下にゼムール7%、ペクレスとジャドが5%弱…と続いて行きます)。前回の一次選と比べてほとんど同じであり、唯一かつ大きな違いは共和党候補者のペクレスが5%以下の得票率に沈んだことでした。特に5%は選挙費用の返還を受けるのに必要な得票率として重要な指標なので、ペクレスの結果は前回の社会党に続く共和党の崩壊を意味しています[12]。ちなみに社会党のイダルゴの得票率は1.7%と12候補者中9位の惨敗であり(これは2.3%を獲得した共産党ルッセルより低い)、ここに80年代以降のフランス政治を担った既存の左右二大政党が共に消え去ったと言える事態となりました。

ここで第4位となったゼムールに触れておくと、彼は極右のルペンよりさらに過激な極右排外主義者です。極右の候補者が2名も出てきた背景には、一方ではメディアの扇情を含む社会全体の右傾化があり、他方で党勢拡大を狙うルペンの国民連合が中道保守層を取り込むために排外主義的な主張のニュアンスを和らげたため(「脱悪魔化」と呼ばれる)、より過激な排外主義が台頭する余地が出てきたことがあります。ちなみにゼムール自体が長年テレビ番組の司会者として世論の右傾化に貢献してきた張本人であり、昨年末の世論調査では20%前後の得票率が予想されるなど台風の目となることが予想されましたが、(移民排斥以外の主張はほぼないので)ミーティングや討論を重ねるごとにボロを曝け出し最終的には(それでも)7%という結果に終わりました。

こうして結果の順位自体は前評判通りでしたが、想定外だったのは共和党ペクレス、緑の党ジャド、社会党イダルゴなどの既存政党の予想以上の惨敗と、メランションの躍進でした。実際メランションの事前予想得票率は15~16%だったので、実に6~7%もの上積みを果たしたことになります。これは去年からの世論調査や後述するメディアの論調などを踏まえると大躍進と言える結果でしたが、それでも二次選に進むことは出来なかったという意味で敗戦ではあります。メランションとルペンの得票差が1.2%だったことを考えると、緑の党、社会党、共産党のどこか一つでも協力していれば彼が二次選に進むことが出来たのにと悔やまれますが、実際にはほとんど文化面においてのみ左派である緑の党ジャドと社会党イダルゴはメランションに対して協力するどころかむしろネガキャンを張り、組織内候補を優先した共産党は一定の距離を取り続けました[13]

なおフランスにおけるほとんどの世論調査のデータを提供しているIpsosという調査会社の結果によれば、マクロンに票を投じた主な有権者は、70歳以上(41%)、高所得者(35%)、(高級)管理職(35%)、(自己申告で)上流あるいは特権的な社会階層に属している(53%)、といった社会的属性の特徴を持っており、社会的に恵まれない有権者層の票はメランションとルペンで二分されるというありさまで、ここにはフランス政治の基底を成す大きな要因の一つである階級対立が非常に分かりやすく見て取れます[14]

メディアと政権のアジェンダ形成

今回の選挙は、社会科学者として中長期的には上に見てきたような社会全体の変化や趨勢が政治空間を規定するという考えは変わらないものの、短期的にはメディアや政権の世論への影響力を再確認する選挙となりました。そしてこうした短期的な政治的意思決定の積み重ねも中長期的な趨勢を形作る大きな要因(の少なくとも一つ)であることを考えると、現在の社会の底が抜けたような言論空間の劣化と排外主義の台頭に対するメディアや政権の責任は大きいを言わざるを得ません。

メディアについては、極右の候補者及びその代弁者をほとんど必ず討論者として招くことで、移民政策や排外的主張の是非を選挙の争点に設定することに貢献したと言えます。これはこれらの争点自体が不毛かつ有害なだけではなく[15]、こうした争点に時間を割くことで他の政治的争点(特に上記の①で示したような社会階級的視点を含む左右対立)がぼやけてしまうという弊害があります。そしてメディアが排外主義を(無批判にたれ流すことによって)煽れば煽るほど、つまり争点が上記②の文化的側面に集中するほど、マクロン対ルペンは「進歩派対保守派」「国際協調派対ナショナリスト」「極右の脅威に対する共和国の危機」という構図として設定され、この限りで多くの左派は(排外主義的主張を受け入れることは出来ないというのみの理由で)、マクロン支持に回ることになります。反対にメランションが決選投票に残るということは①の階級対立的争点を扱わざるを得ないということであり、マクロン対メランションの構図も必然的に「大富豪層対庶民」「1%対99%」になったでしょうが、これは富裕層や資本家(そして彼らが筆頭株主である主要メディア)がなんとしてでも阻止したかった流れでもあります。

政権側はウクライナ戦争で忙しいことを口実にマクロン本人が討論番組に一度も参加せず支持者とのミーティングも一度しか行わないなど、過去5年間の政権への総括及び批判やマクロンが掲げるマニフェストについての問題点が指摘されかねない機会をことごとく回避していました。マクロン本人による選挙キャンペーンは直接的にはSNSでの動画配信、間接的(というかほぼこちらがメインでしたが)には連日メディアで報道されるウクライナ戦争関連におけるマクロン政権の外交努力であり、個人的にはこんな(一方的に主張を配信するだけでなんの議論もない)反民主主義的かつ大衆操作も甚だしい選挙戦を行うなど有権者をどこまで馬鹿にしているのかと思いますが[16]、まぁ勝てば官軍ということなのでしょう。

決選投票の展望

こうして政権や主要メディア(とそれを支える富裕層)の思惑通り、決選投票はルペンとマクロンの一騎打ちとなりましたが、これは2000年代の初頭から(特に右派の)中道政党が多かれ少なかれ取り続けてきた戦略の焼き直しでもあります。つまり、フランスの経済的パフォーマンスが危機的レベルにあると煽りそのためにより柔軟な労働市場や各種公共サービスの民営化、公共支出の削減が必要であると訴えるものの、(左派が指摘する)そうした政治がもたらす社会的・経済的不平等や不公正の問題にはほとんど向き合わず、そうした政治の結果がその台頭をもたらした要因の一つであるレイシズムや排外主義の台頭の脅威に対する防波堤を自認する、という手法です(極左のプトゥーは「マクロンは放火魔の消防士だ」と言っていますがこれは言い得て妙だと思います)。そもそも平時にはこうした排外主義的主張や彼らの活動にノータッチでありながら(それどころかメディアも彼らの主張を積極的に取り上げることによってこうした論点が選挙争点になることに貢献している)[17]、選挙時のみその脅威(と自らが防波堤であること)を指摘する様は個人的にはとても白々しく思えます。

一次選の結果が出るや否や、共和党ペクレス、社会党イダルゴ、緑の党ジャドは「極右が政権を取ることを阻止するために」決選投票でのマクロンへの投票を呼びかけました。彼らは極右政党が権力の座に就くことを食い止めるのはフランス共和国を守ろうとする人々すべての責任であると言い、そのために対立候補であるマクロンに投票すべきであると呼びかけます。こうした認識は間違ってはいないでしょうが近視眼的で、また労働者・庶民階級の人々にとってはマクロンの階級蔑視観がルペンの排外主義・人種差別観ともはやほとんど同じレベルで憎まれていることを政治的エリートである(その意味で政治的支配者の見方を多かれ少なかれ共有している)ことを彼らはおそらく十分に理解していないように思えます。実際、ペクレスの呼びかけにも関わらず、決選投票における彼女の支持者の投票予定先は、マクロン45%、ルペン28%、未定27%であり、彼女の支持者の半分以上は(彼らのリーダーが呼びかける)マクロンへの支持を拒否・保留していることになります[18]

一次選でマクロンとルペンの間に5%もの差がついたとは言え、四番目に多い得票率(7%)を獲得したゼムールがルペン支持を呼びかけ(そして彼の支持者については85%が決選投票でルペンに投票する予定であると答えている)、共和党のペクレスを支持した人々が必ずしもマクロンへの支持に回らないとなると、決選投票ではかなりの接戦が予想されます。実際に各種世論調査ではマクロンが51~54%の得票率で勝利するという予想がなされており(Ipsosの調査では54%)、過去二度の極右候補が決選投票に進んだ時のような「極右が権力を握らないために何が何でも対立候補に投票しなければ」というような雰囲気もそれによる圧勝ムードも今回はかなり薄いように見受けられます。

ここで決定的に重要になるのが一次選で22%の得票率を獲得したメランション支持者の動向ですが、メランションは決選投票について「ルペンに一票たりとも投じてはいけない」と繰り返すのみで「マクロンに投票すべきだ」とは一度も言いません。ここまでの記述からおそらく明らかなように、メランション支持者にとってはマクロン政治はルペンの主義主張と同じようにフランス社会を破壊するものだと捉えられているので、ルペンが大統領になることには断固反対でもそれを理由にマクロン支持には回ることもはやうんざりだと思っているでしょうし、そうした有権者に支えられていることを自覚しているメランションも(消極的にでも)マクロン支持を呼び掛けることは自らの基盤を掘り崩すことだと認識しているでしょう。実際に決選投票におけるメランション支持者の投票予定先は、マクロン29%、ルペン25%、未定45%となっており、ペクレス以上に見通しが立ちません。マクロン陣営は2017年選挙の一次選でフィヨンを支持した約20%の中道右派層に対して働きかけたように決選投票までにメランションの支持層を取り込もうとするでしょうが、マクロン政治がルペンの主義主張と(今まで見てきた通りその質は違うものの)同じくらい反感を買っており、彼らが支持したメランションが提示していた方向性がルペンから離れたものであったのと同じくらいマクロンから離れていたものであることを考えると、五年前と同様の戦略が功を奏する度合いは低くなっています(世論調査の接戦予想もこうした事情を反映している)。

おわりに

最後に、フランス滞在年数が8年になり現地で大統領選(と平時から政治に関する議論)をそれなりに追いかけてきた身からすると、「選挙は民意の発露である」というのは間違いとまでは言えないでしょうが過度に単純化したものの見方であると実感せざるを得ません。選出された大統領はそれが誰であろうと「国民の総意によって選ばれた」ことを強調するでしょうが、一次選の投票結果から見て取れる通り盤石な候補者は存在しません(首位のマクロンでさえ投票者の約28%、有権者の約20%から得票したに過ぎない)。そして候補者の掲げるマニフェストが利害を異にしうる多くの政策から構成されている以上、多くの有権者の支持は多かれ少なかれ消去法的なものになるでしょう(この点で排外主義というほとんど単一の政策を押し出すゼムールは例外で、それはルペンにもある程度当てはまります)。なにより日常的な政治的争点の形成や選挙時のアジェンダ設定に果たす政権やメディアの役割を考えると、「有権者はメディアから取得する情報や知識とは独立して確固たる政治的立場や意見を持っており選挙はその表現に過ぎない」という代表性民主主義が前提としている理念の現実的基盤ははかなり疑わしく思えます(だからといって一足飛びに代表制民主主義を否定しているわけではない)。

以上が24日の決選投票を控えた現時点での考察です。僅差とは言えマクロン有利の情勢は変わらないわけですが、ここで彼が当選した場合でもそれはもはや「排外主義的ナショナリズムやレイシズムの台頭に対するフランス民主主義・フランスのヨーロッパ主義の底力の証明」と呼べるものではないでしょう(もちろんマクロンはそのように位置づけようとするでしょうが)。むしろそれは現在のフランス政治の混迷、そして現代フランスの代表制民主主義の機能不全の反映により近いのではないでしょうか。トランプ政権やBrexit後の混乱を見れば、排外主義的(自国中心主義的)ポピュリズムの台頭は民主主義の再活性化には全く繋がらないどころか権威主義的な政治(とそうした政治をめぐる過激な対立)を助長するのですが、そうした排外主義に対する人々の恐怖や分別を当て込んで火遊びをする政治エリートも、同様に民主主義を愚弄していると私は言いたい。

 

[1] 実際には、保守層も自らの基盤が危うくなると社会的な保護や再分配という政策を支持するようになるのですが、こういった立場は往々にして社会的平等の要求(①の左派的立場)に向かいづらいものであります。それはこうした主張が社会的平等や公正を追求するものからくるものではなく、むしろ今まで相対的に恵まれた立場にあった自らの地位が脅かされているという不安感からくるものだからです。ここでは人種差別や性差別といった数々の社会的不公正については良くて無視、実際にはこうした社会的不公正や不平等が自らの相対的優位性を担保してきたものであるとしてその積極的な維持(排外主義や男性優位主義)を志向します。

[2] 近代のダイナミズムを、自由主義・保守主義・急進主義(社会主義や共産主義など、人為的により望ましい社会を形成していこうとする立場)という、互いに対立し相補し合う三者の相克として分析する社会学の古典に、ニスベット『社会学的伝統』があります。

[3] この二者の違いについて考えさせられるケースとしては、例えば男女平等を希求するキャリアウーマンは、(そうでないと敬遠・転職されるという社会であれば)彼女が優秀である限りにおいて企業側は良い処遇を行うでしょうが、彼女個人のキャリア形成が社会的な男女平等や女性の地位向上に結び付くものかどうかを考えてみてください。

[4] なお、(根本的には人類の存亡が関わっているのだから)本来的にはこれら二軸の左右対立と独立的に存在するはずの環境問題という論点については、これが実際の政治的争点となる際は②の軸に回収されていくというのがフランスの現状です。これは、緑の党など政党を構成する主体が往々にして都市の中流・上流階級出身の人々であること、環境問題に取り組む際に社会的・経済的不平等や不公正の問題が十分に顧みられていないことによります。

[5] なお2002年の大統領選で、共和党シラクと社会党ジョスパンの一騎打ちという事前予想を裏切ってルペン父が決選投票に進み非常に大きな衝撃を与えたのが極右の台頭を示す出来事でした。しかしこの時は国民戦線への積極的な支持というより社会党への幻滅がルペン父の得票の大きな要因であったこと(投票率自体も現在の第五共和制の中で最低だった)、大多数の国民はルペン(国民戦線)の主張に強く反対していたことから、決選投票ではシラクに82%の票が集まりました(これも史上最高の大差)。

[6] このことについてよく言われる例証として、現在のフランスの社会構成において(現場)労働者が約4分の1を占めているにもかかわらず、フランス議会において(現場)労働者出身の議員は一人もいないという事実が挙げられます。

[7] メランションを極左と位置付けるメディアや論者も多いが、個人的には同意しない。彼が①で見てきたような経済的不平等の問題を再度議論の俎上にのせたことは確かだが、プログラムやインタビューを見聞きする限り彼が従来(高度成長期以前)の左派が主張していたような資本制の打倒や社会主義革命を志向しているとは全く思えず、その意味で(評価の是非はさておき事実判断として)改良主義的立場に留まるからです(ちなみにこうした立場の漸次的変化はフランス共産党にも言える)。その言葉本来の意味における現代の極左は、反資本主義新党のプトゥーや労働者闘争(という名の政党)のアルノーでしょう。ちなみに筆者は、(彼が政権を取ることはないと思うものの)個人的にはプトゥーに好感を持っている。

[8] ちなみに共和党のフィヨンは、(長年に渡り自分の妻や近親者に架空のポストを与え公金を横領していたという)スキャンダルがなければ大統領になっていた可能性は十分に考えられ、そうなれば現在の政治勢力とその配置も異なるものになっていたでしょう。

[9] この背景には、前大統領のオランドは不人気過ぎて出馬を辞退せざるを得ず(現職有利な選挙においてこれ自体かなり異例な事態です)、党内左派のアモンが社会党予備選を勝ち抜いたものの、オランドを始めとする党内右派がこぞってマクロン支持に切り替えアモンを見捨てたという事情がありました。アモンは続く国民議会選挙も惨敗し、社会党は再び右派が主導権を握ることになりました(イダルゴはその系譜に属する)。

[10] 国鉄や(国公立)大学は既に民営化され、労働法は元々規制と保護が弱く、年金改革に至っては反対することなどほとんど思いもよらない現在の日本では、これらの諸改革の持つ政治的意味を理解するのは非常に難しいと思いますが、これらの点について述べるのは別の機会に譲ります。

[11] ちなみにこれは上記の分類でいえば①(階級的な意味)の左右対立においてマクロンが右派であるということで、では②の文化的な左右対立においてはどうかという問題はありますが、個人的な印象で言えばおそらく彼自身はこの問題に関心がない。そして関心がなく、フランス世論(というかジャーナリストのほとんどが都市出身の教育・文化水準の高い中間層から構成されるメディア)が全体としてはジェンダーやマイノリティの問題を「伝統に固執する保守主義者に対する進歩主義者の闘い」とフレーミングする限りは彼はこの側面においてスタンスとしては進歩派でいられるだろうと思います。しかし一方では同性婚は既にオランド政権時に法制化され人種差別的主張はその跋扈を見逃し、他方でジェンダーや人種的側面での実質的平等や公正を促進するには社会経済的な再分配やシステムの変更(つまり①の意味での左派的介入)が必要であることを考えれば、この分野において彼が進歩派として成し遂げられることも多くはないと思います。

[12] 厳密には次の通り。まずフランスでは選挙の公正さを担保する目的から各候補者が動員できる選挙費用に上限があり、その上限額は現在、一次選については約1700万€(約23億円)、決選投票については約2250€(約30.7億円)となっています(こんな高い上限設定で選挙の公正さを担保する競争制限になるのかという疑問はもっともだと思いますがここでは掘り下げない)。一次選で5%の得票率を獲得すれば最大でこの上限の47.5%である約800万€(約11億円)の費用返還がなされるのに対し、5%以下の場合にはそれが上限の4.75%である約80万€(約1.1億円)になります。政権維持や党勢拡大を狙う政党はこの費用返還を当てにしてしばしば借金をしてでも莫大な選挙費用を用いるので、5%に満たないことが即座に党の財政危機に繋がります。今回5%に満たなかったペクレスの共和党とジャドの緑の党は共に財政危機に陥り、既に両党首が寄付を呼び掛ける事態になっています。

[13] もちろん、メランション自身の権威主義的な性格や党組織よりも自身へ権力を集中させたがる傾向もこうした左派政党(特に共産党)から協力を得られなかった一因でもあります。特に彼が醸し出す自身の知的優秀さやカリスマ性を疑わない態度(簡単に言えば上から目線で、この点アメリカのサンダースに似ていると思う)はマクロンとどっこいどっこいレベル(というかこの二人は政治的な主義思想は正反対だが、政治家としての類型的にはある程度似ている)で、彼の支持者でもプログラムは支持するが彼のパーソナリティを好まない人も少なからずいます。

[14] なお調査は一次選直前に行われたものなので、各候補者の得票率が実際の結果とやや異なります(特に直前まで猛烈な追い上げを見せたメランションの得票率が2%ほど低く出ている)。また年齢構成による投票先は厳密に言えば階級対立というより(階級対立を含む)世代対立と言えます。ほとんどの政党が有権者のボリュームゾーンを成す高齢者層の利益を損なう政策を掲げないのはフランスでも同様で、マクロンの(受給年齢を引き上げたり給付額を引き下げる労働者にとっては改悪の)年金改革ですら現時点の年金受給者には適用されないので、こうした改革が高齢者層の支持率を損なわない理由はこういった点にあります。

[15] 排外主義者の主張はそのほとんどすべてが人権侵害であるか現行法(国内法及び国際法)を無視した実行不可能なものなので、(極右や排外主義者はどこにでもいるので)そうした政策を掲げる政党が存在することはともかく、彼らの主張を無批判にたれ流したり事実に反していることをチェックしないのであればメディアはその役割を放棄していると言わざるを得ません。

[16] ちなみに大衆操作で言えば、選挙一か月前から特に理由もなくマスク着用義務が解除されるという措置もありました。こうした措置の妥当性は選挙が終わった時に明らかになるでしょう。

[17] Ipsosによる今回の選挙の主要争点を訪ねた世論調査で、ダントツ首位の「購買力(58%)」の次に「移民(27%)」の項目が僅差で第二位に位置したことは示唆的でしょう。ちなみにこれらの後に、「医療制度(26%)」「環境(26%)」「年金(25%)」が続きます。

[18] これもIpsosの世論調査による。ちなみにジャドの支持者の予定投票先はマクロン59%、ルペン12%、未定29%ですが、緑の党の支持者社会層を考えればこれは驚くには当たらないでしょう。イダルゴの得票率が1.7%しかなかったこともあり彼女の支持者の予定投票先はこの調査結果には示されていませんが、現在の社会党支持者のプロフィールを考えれば緑の党とほぼ同様だと推察されます(そもそも前回アモンに投票したような社会党左派層はほとんどメランション支持に回った)。

Promising Young Women (プロミシング・ヤング・ウーマン)

2021年6月鑑賞。

バーとかクラブで酔いつぶれた美女(主人公)をその場にいた男性がお持ち帰りして無理やり行為に及ぼうとすると、実は彼女は全然酔ってなんかおらず「なんで無理やりセックスしようとしてんの?」と説教を食らわせるシーンから始まる映画。映画自体は主人公がなんでこんなことをするようになったのか、その原因となった過去の事件がふとしたきっかけから新しい展開を見せどうなっていくのか、という感じで進んでいく。作り自体はセンセーショナルな場面もあるし全体的にポップなトーンでもあるのでスリル系の娯楽映画かなと思っていたら、セリフの一つ一つと登場人物の描写が良く作り込まれた映画だった。大衆向けと見せかけて観た人に考えさせるといういい意味でトラップ的な作品だったと思う。

 

個人的には「男女間の(特に性交渉における)合意」という問題について考えさせる映画だったので、その点について書いておきたい。もちろん合意という点については異性愛だろうが同性愛だろうが関係なく重要なのだけれど、映画ではこの「合意」形成に潜むジェンダー的な権力関係に問題提起しているので、男女間としておく。

さて、「合意」というのは現代の家族関係やカップル関係の基盤をなす重要な観点だということをまずは抑えておきたい。この背景には、「家」や「結婚」という「制度」の重要性が低下していること、反対にそうした家や(婚姻関係に基づいた)家族を成す個々人の自由意志がより尊重されるようになっていること、などがある。虐待や家庭内暴力(DV)などの言葉が出てきた背景の一つにも、「家族というものをもはやブラックボックスとしておかない」という認識の広まりがある(ちなみにフランスでは「夫婦間レイプ」という言葉も出てきていて、婚姻関係にあること=カップル間におけるすべての性的関係への合意、という了解は成り立たなくなってきている)。

ここで一つ注意。日本では(まだ?)結婚や家といった慣習・制度の社会的重要性は比較的高いので、家族の基盤が「(家や結婚といった)社会的な制度による承認」から「カップルを成す個々人の合意」への移行している、とは手放しで言い難い。とはいえ婚前交渉は一般的になっているので、結婚してない男女間(カップルであろうとなかろうと)における「合意」の問題は当然出てくる。図式的に考えれば、特に欧米諸国と比べたときの日本(というか東アジア諸国)の特徴は、「家族」と「結婚」のつながりが欧米諸国では希薄になってきているのに対して日本では依然として強く残っている、という点にある(この典型的な指標は婚外出生子率、つまり結婚してないカップルから生まれた子供の割合で、これがヨーロッパだと30%とか50%だけど、日本だと2%程度)。これに「合意」の問題を重ねると、(結婚しているということが必ずしも一生家族であるということを保障しない)前者では合意はずっと問題になってくるのに対して、日本は結婚までは「合意」の問題はあるけど結婚後はよっぽどのことがなければそれを問題として提起しづらいというところだろうか(異論はあると思うし認める)。

 

ということで、関係を取り結ぶ個々人の間の「合意」というものが現代の恋愛・家族関係においてキーワードになってきている。これは逆に言えば、合意さえあれば基本的には何をしても許される(というか外野からとやかく言われる筋合いはない)ということでもある。ここで社会的な規範から逸脱しているのが、行為そのものであっても(俗にいう変態プレイというやつ)、行為を取り結ぶ個々人の社会的属性であっても(同性であるとか、年齢差がめちゃくちゃあるとか)、不貞とかに抵触しない限りは罰則を受けることはない。一つの例外は未成年者で、これは「合意」というものが個人の判断能力を前提にしている、という理由に拠っている。個人がある判断をするということはそのための自律した判断能力を持っていて、そのためにその判断に伴う結果の責任を受け入れる・受け入れざるを得ないということでもあるので、だったらそうした判断能力を持っていると言い難い未成年者に判断をさせたりその判断に伴う責任を負わせたりするのは筋違いだよね、ということ。これは飲酒・喫煙とか投票権とか運転免許とか、未成年者に対する保護・制限(保護と制限は表裏一体だ)に関する一般的な論理で、社会的に確立された考えだと言える。

 

ここでやっと映画に戻るんだけど、ここまで書いてきたことを踏まえると、成人した男女間の性交渉には「合意」のみが必要だ、ということになる。そしてここで映画が見せてくるのが、「(バーやクラブ、パーティーなどの社交場において)男性は女性の合意を得る努力をするよりも、女性を合意形成不可能な状態に陥らせて(つまり泥酔させて意識があやふやな状態にさせて)性交渉に及ぼうとする」という、ありがちといえばありがちだけどこうして見てくるといかに問題含みかということに気づかされる関係性である。

そして「相手を合意形成不可能な状態に陥らせた上で行為に及んだ」にも関わらずそれがレイプとして認定されない・されづらい背景として存在する、社会的なジェンダー構造が映画では浮彫りにされている。曰く、将来有望な医学生であったからとか、そうした場に行く女性に責任があるだとかである。ちなみに同じような事件が起きたときに日本でもよく言われる女性自身の責任については、合意形成能力(つまり意識)を失わせた時点で責任は問えないということを強調しておきたい。また、そうした場(バーとかクラブとか飲み会とか)に出向くこと自体について、女性の自己防衛の観点から個人的に注意を促すことと(まぁ普通に考えて家族とか友達とかがそういう場に出入りしてたら「くれぐれも気ぃつけるんやで」くらいは言うわな)、何か問題が起こった時に女性に責任(の一端)を問うことは全く別の問題である。これを同一視するなら最も安全な社交場は男性(女性)のみの社交場ということになるが、まぁ俺が独身なら参加せん。

ちなみに男女関係(の特に性関係)において「合意」を基盤とすることの厄介さの一つに、「合意が言語化されないことが多い(明文化なんて持ってのほか)」ということがある。これはあらゆる行為にその都度言語化された了解を取ることはロマンチックな雰囲気を阻害する、むしろあえて言語を通さずやり取りできることがカップル間の意思疎通が上手く行っていることの証明になる、と考えられているという事情がある。ただこれは合意のなしを意味しない。手をつなごうとして振り払われたときに「言葉で断られた訳ではないから断られた訳ではない」とかいう奴は悪あがき以外のないものでもないし、キスされたくないから顔を背けたときに「ちゃんと言葉でいってくれないと分からない」とかいう奴とはもう連絡取らなくて良い。経験談ではないです。だから性的関係において合意が明確でないということは基本的にないのだけれども、こうした「言語化されない合意に基づく性的関係」と「(一方が合意形成能力を失わされているがために)明確な拒否の存在しない性的関係」とを同一視しようとする非常にアクロバティックな努力がなされることがある。まぁでも合意形成能力を失わせた時点でこんなもの詭弁としか言いようがなく、問題は「言語化された明確な合意あるいは拒否があったかどうか」ではないことが分かる。ちなみにここまで書いてきて何度も伊藤詩織氏の事件が浮かんだ。

なお最近ではちゃんと言語化された明示的な合意の確認を取りながら関係を結ぶカップルも増えてきているようで、これは「合意」を暗黙的に成立させようとする従来の曖昧さ(とそれに付随しうる問題)を解決しようとする傾向だと思う。

 

最後に、ジェンダーというと男女の問題と理解されがちで、それは必ずしも間違ってはいないのだけれど、それだけでは不十分だということを指摘しておく(ちなみに「ジェンダー=女性の問題」という理解は男性への視点が抜けてるので不十分どころかこれは端的に間違い)。ジェンダーというのは基本的には社会的に構築された性差を指すので、常に男性VS女性という構図を取るわけではないし、そういう理解が必ずしも適切な訳でもない(むしろきちんと見ていった場合そういうケースの方が少ない)。社会的に存在する「女性(男性)とはこうあるべきだ」という枠組みを女性が内面化している場合もあるし、(現実に存在する制度上・慣習上の恩恵を受けながらも)そうした枠組みに疑念を抱いている男性もいる。こうした女性あるいは男性の中での立場の多様性も映画では描かれていて、それは学生時代はフェミニストでありながら玉の輿結婚を経て保守化する主人公の大学時代の友人や男子学生の言い分を女子学生のそれより重視する女性学長、主人公の両親で母親よりも父親の方が主人公の気持ちを理解していることなどに見て取れると思う。男性も女性も一枚岩ではない。なのでこの映画を「女性による男性への復讐劇」という図式に当てはめるのは、私にはやや浅薄な理解に思われる。

 

まぁ私は自分も男性なので、こうした(自分も含めた)男性の卑怯さとか根性のなさを映画を通してまざまざと見せつけられるのはきついといえばきつかった。英国紳士だったら「情けないぞ男性諸君!」と咆哮しているところだろう。英国上流家庭に生まれるべきだったか…!

 

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ブルジョワ批判と少子化

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

このブログのエントリを「面白いよー」と知り合いに紹介してもらった。実際僕も興味深く読んでいたんだけど、少し違和感を感じるところがあって、せっかく教えてもらったのだから感想を伝えようと書き始めたら、その違和感について細かく考えざるを得なくなって、結果「だいぶ違う意見持ってたんかい!」というところまで来てしまった。笑 長くなったのでブログ記事としてここに載せるけど、元エントリまで遡るとたぶんかなり長くなることを始めに伝えておく。あとどうでもいいけど、元エントリでは「ブルジュワ」となっているけど僕は「ブルジョワ」を貫くということも伝えておく(書いてから気づいた)。

 

(遡るのが面倒な人のためにかいつまんで言うと)このエントリは、ある匿名の女医さんのブログ記事に対して書かれたものだ(というかそれについて分析したもの)。女医さんのエントリを要約すると、「私は医者のキャリアに疲れた。労働環境・条件や大勢の患者の態度は厳しく、常に120%を要求してくる。このような状況では、恋愛して結婚して出産して子育て、というような(世間が求める)一般的なライフコースは考えられない。職場の雰囲気も産休や育休に協力的ではなく、そもそも多くの医者のキャリアが実質29歳でスタートするので、自由な時間もそれを享受するための社会的・経済的安定性を得るのが遅すぎる。自分は男尊女卑でもミソジニー(女性嫌い)でもないけれど、日本の医療を支えるのは男性医師を増やす以外にないだろう」というもの。

このような悩み(あるいは皮肉混じりの痛烈な批判)に対して、このブログの筆者はより広い見地から現代人の置かれた状況の分析を試みる。その論旨を簡潔にまとめると、「現代社会で規範となっているライフスタイルと生殖という人間の根源的な営みは両立がほとんど不可能になっているのではないか(結婚、出産、子育てという家族軸と男も女もキャリア展開という仕事軸が両立しない)。そしてそれは、そのための社会・経済的条件が達成されるはずもない「ブルジョワ化」が進展しているからだ(だからそんな達成するはずもない「ブルジョワ」は批判すべきだ)」というものだと思う(「ブルジョワ化」が具体的にどういう状況を指すかはエントリを参照)。

 

そしてこのような見立てに対する僕の考えは、現状認識は大筋理解できるが、主張は賛同出来ない(というか主張がよく分からない)、といったところ。

この「ブルジョワ化」論なる議論の前提、つまり現代社会において(女性も働くようになったため)出産・子育てを行うには家庭と仕事の両立という問題に立ち向かわないと行けなくなっていることや、教育コストが増えてきていることが少子化の要因となっていることについては認識が概ね一致する。ただ現代社会といっても先進国間で差はあって、その空間軸での差について(おそらく戦後成長期という、より差の大きい時間軸との比較で)筆者は微々たるものだと捉えているけど、僕はそう思わないというのがまず一点。これは少し後で分かるはず。

 

さて、こうしたライフスタイルと生殖の両立困難性を説明する「ブルジョワ化」という用語についてだけど、とりあえずは「社会上層以外の一般庶民にまで上層階級の行動様式・規範が広がっていく過程」とでも定義出来るだろう*1。そしてこの「ブルジョワ化」に対する僕の考えを一言で言ってしまえば、「ブルジョワ化を批判するのはとても難しい」というもので、その理由はこれが機能的にも価値的にもある程度肯定出来るものではあるからだ。

機能的には、「ブルジョワ化」が人口爆発抑制の大きな要因の一つとなっているからだ。つまり、少子化が現代先進国に共通する課題であるとするなら、より広い歴史スパンで見たとき、その少子化に先行するのは経済発展に伴う人口爆発であるということだ。これは人口学的な傾向で、社会科で習った人口ピラミッドがピラミッド型からつぼ型を通って逆ピラミッド型になっていくアレだけど、ここで意識の転換としての「ブルジョワ化」が働かなかったら、多産小死の状態が続いて少子化云々の前に食い扶持をどうするのかといった意味での人口問題が生じてくる。これは古典的な「マルサスの人口理論」で、経済発展において食糧供給は等差的(2,4,6...)にしか増大しないのに、人口は等比的(2,4,8...)に増大するから食糧問題は避けられない、という問題だけど、世界的に見てより深刻なのは未だに少子化なんかよりこちらの問題だ*2。このマルサスの呪いとも言えるこの傾向から例外的に現代先進国が逃れている理由といえば、(生産力の劇的な拡大をもたらした農業革命ももちろん重要な要因だけど)人々の意識が「ブルジョワ化」して自発的に子どもの数を制限しているからだと言えるだろう。そしてこうした「ブルジョワ化」が進まないなら(つまり人々の意識が「貧乏子だくさん」のままで留まるなら)、中国の一人っ子政策みたいな人口抑制策を打たざるを得なくなるだろうけど、そのような露骨な人口介入政策には嫌悪感を持つ人が多いのではないだろうか。少なくとも僕は嫌だ。

そして価値的に見ても「ブルジョワ化」というのは、言葉の当否はともかく、その内実としては好意的に受け止めざるを得ない部分が多いと思う。というのは、「上層階級の行動様式や規範が社会全体に広がる」という現象の土台には、社会全体の経済・生活水準の向上と、社会階層移動の可能性が不可欠だからだ。特に少子化との関係で言えば後者が重要で、なぜ現代先進国の(特に中流階級と呼ばれる)人々が彼らの数世代前の様に子どもを7人も8人を持たず、たいてい2、3人に留めるのかと言えば、それは元の文章で言われてる通り(金銭的にも非金銭的にも)養育コストがかかるからだけど、それは裏を返せば教育を通じて社会階層を上昇する可能性が開かれているということだ。現場労働者の子が医者になっても良いし、農家の子が大企業の重役になってもいい(もちろんその逆の可能性もある)ということで、これは機会の平等を認めるメリトクラシー(出自ではなく本人の能力をその人が占める社会的地位を決める際の物差しとすること)の理念が、少なくとも理念としては認められていることを意味している。もちろん出自と後天的に獲得される能力を切り離すことは出来ないし、「実態ぜんぜん伴ってないやんけ」という批判は出来るけど、それでも現実へのそうした批判を可能にし、多くの人により望ましいとされる社会への指針となるという意味において、理念は重要な役割を果たしている*3。だって、どれだけ才能があってどれだけ頑張っても付きたい職業にはつけず、また決められた職業内での地位も決まっていて、自分の子どももその道を歩むだけというのであれば、ブルジョワの生活様式(単に別の可能性と言い換えても良い)を志向することも、子どもが少しでも良い人生を送れるよう手間ひまかけようと思う(結果持つ子どもの数を制限する)こともないでしょ?

 

こうして見てくると、そのタイトルとは裏腹に、少子化のみを念頭に「ブルジョワ化」を批判することは、図らずもそれが社会全体の生殖(人口問題)に果たす他の役割、そしてブルジョワ化と裏表の関係にある他の近代的な価値を考慮しないことになってしまう。
これが僕が「ブルジョワ」批判を難しいと思う理由だけど、「ブルジョワ」批判にはもう一つ危うい部分があると思う。それはこの「ブルジョワ」批判が人々のブルジョワ化を対象とした場合、このエントリがそこまで踏み込んでいない点、つまり批判のその具体的な水準や方向性がかなり時代錯誤なものになってしまう可能性が高いからだ。実際、「ブルジョワ化」した人々の意識を批判するのであれば、様々な理由から子どもを持たない選択をした人を責めることも、女性は家庭に専念しろということも、子どもを少なくとも5、6人は産むべしという価値観を押し付けることも、人々の社会階層移動の可能性を否定することも出来るわけだけど、そんなことは自らでっち上げた「伝統的家族」観に固執するウルトラ保守でもなければ不可能に近いだろう*4

もちろん、そんなことは明らかにこの著者が意図する方向性ではないだろうことは理解できる。だからこそ「ブルジョワ化批判(ブルジョワの社会的・経済的条件が伴わないのに規範意識だけはブルジョワ化してしまった人々への批判)」ではなく「ブルジョワ批判(その実現が恐らく不可能にも関わらず人々の理想であり続けるブルジョワという理念そのものへの批判)」なのだろう。しかしこの区別は明確にされておらず、論旨全体がいかに人々のブルジョワ化が進展してきたかについての議論である以上、このようなミスリードは起こっても仕方ないと思う。それに、理念そのものへの批判は展開されておらず、(理念そのものへの批判をすべきではないかという主張が結論)、これが僕がこのエントリに対してアンビバレントな態度をとる理由となっている。つまり人々のブルジョワ化について説明した後に、「悪いのはそんなブルジョワ化を引き起こすブルジョワという理想そのものだ!」と言われても、「(ブルジョワ化批判でなく)ブルジョワ批判の可能性を探すべきという認識は理解出来るけど、それだけだとその批判がブルジョワ化批判に変質しないという保証どころか、そもそもその批判の中身がよく分からん」となってしまう。まぁ、現状認識をクリアにしてくれたことがこのエントリの貢献であり、それ以上(具体的なブルジョワ批判)はないものねだりだと言えばそれまでなんだけど。

 

ただこう見てくると、「理念としてのブルジョワ批判」という大上段で抽象的な理解では、あまり現実への訴求力を持たないのではないかと思えてくる(ぶっちゃけどうしたらいいかよく分からん)。というのは、現実を少しでもより良くするための認識の仕方として、「ブルジョワ」という言葉での切り取り方が適切だとは僕は思わないからだ。

現代の先進国の人口政策(少子化対策)に求められて、かつそれが現実的に採用できるのは、人々が「ブルジョワ」化する以前のように6人も7人も子どもを作ることが規範になること(そしてマルサスの呪いに逆戻りすること)を夢見ることではないはずだ。求められているのは、この女医さんのエントリのように子どもを持つなんて考えられないと思うような人に子どもを持つことを可能にさせる労働条件の整備であったり、財布を見比べながら子どもを我慢している夫婦が子どもを持つことを躊躇う必要がなくなるように子育ての教育コストを(金銭的にも非金銭的にも)軽減して、合計特殊出生率を2強に保つ(回復させる)ことだろう。そうした負担の軽減では、一方では労働環境の整備になるだろうし、もう一方では世帯手当や(保育所を含めた)公教育の拡充といった社会的なバックアップシステムを拡充させることだろう(もちろんこの二つは深く絡み合っている)。

この二つ目は特に、介護や子育てといった、ほとんどの人がライフサイクルのどこかで経験し、現在社会ではその負担が増々重くなっているケアの領域の「社会化」と呼ばれるものだ。そしてケアの「社会化」はブルジョワというタームを必要としないにも関わらず、少子化への対策であるばかりか、ブルジョワの陥とも言うべき弊害を乗り越える試みでもある。それは、「ブルジョワ/非ブルジョワ」という図式で少子化を捉えた時に不可避となる経済・社会的格差の固定化を前提としなくてもよいということだ。こうした労働条件の違い、そしてケアの領域の「社会化」のバリエーションと程度が、先進国間の違いを僕が微々たるものだとは思わないことの背景となっている*5

 

勤勉に働くことが長時間労働とイコールであるわけではないし、医者のキャリアが29歳で始まって産休育休が実質的に取れないことが医者という職業にとって必然性のあることでもない。それはそれぞれの社会の、労使関係や家族政策など様々な要因の絡み合いによって歴史的に形成されてきたものであって、決して「ブルジョワ化の必然的な帰結」といったものではないと僕は思う。であるからこそ、それは日々の職場での営みであったり、労働組合であったり、政治参加であったりといった、様々な具体的で現実的な方法で変革できる余地を生むのだ*6。確かにそれは、大文字の「ブルジョワ批判」よりも根本的でなく、地道で面倒くさく、あまり華々しいものではないけれども。

 

*1:ちなみにこれはそんなに新しい概念ではなくて、ノルベルト・エリアスというドイツの社会学者が描く文明化の理論がまさにこの構図で描かれている。彼は、「文明化の過程」とは、上層階級の行動様式・規範が下層階級にまで広がっていく過程であり、彼の著作「宮廷社会」は、手を洗ったりテーブルマナーであったりという、現代先進国社会ではすごく当たり前だけど細かなことがらの発祥は前近代での「宮廷社会」であることを描き出している。ただ、宮廷とそれを打倒として台頭してきたブルジョワは別物なのであり、そうなると「ブルジョワ化」という概念自体の妥当性や範囲も問われることになってくるけど(そしてそれは厳密性を求めた場合には必要な議論でもあるけど)、脱線しすぎるので割愛。

*2:例えばSF映画のSeven sistersなんかを見るとこうしたパターンの近未来が描かれている。映画自体の個人的な評価としては制作が先進国目線なのと、ここで述べる「ブルジョワ化」の効果(効用)を考慮に入れていないことで片手落ちになっていると思うけど、それを除けばサスペンスありリアリティありのなかなか良い映画だと思う。

*3:教育機会の平等性が形式的に担保されているにも関わらず、実質的に不平等が維持されるメカニズムを明らかすることが戦後フランスで恐らく最も影響力の強かったピエール・ブルデューの一連の著作を貫く一つのテーマだ。ただ教育と格差というテーマについて日本の文脈で言えば、ブルデューの枠組みをそのまま当てはめるよりも苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』の方がより説得力が高い(あとこの本は単純に面白い)。

*4:ちなみに現代先進諸国において、こうした「伝統的家族」を固持しようとする保守的な家族政策を取る国々(ドイツや日本が典型)の出生率が軒並み低いことは家族社会学では良く知られている。「家族主義のパラドクス」とも言えるべきもので、簡単に言えば子育てや介護などのライフサイクルで生じる様々な負担を(家族の絆という美名と公的支出の削減という大義の下に)家族に担わせようとする政策が、一番その解体を進めているという皮肉である。

*5:というか、福祉国家論の基本的な枠組みではケアの問題を(すごく大雑把に言ってしまえば)「家族/市場/公共」に三領域で捉えているのに対して、「ブルジョワ/非ブルジョワ」は実質的に「市場/家族」の二領域での把握なので、説明能力が下がるのは当然と言えば当然ではある。こうした様々なタイプの福祉国家について類型化を行ったのがゴスタ・エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』であり(だからこの分野では基本文献となっている)、日本的な視点からの入門書としては筒井淳也『仕事と家族』を挙げられる。

*6:もちろん、徳の厚い温情主義的な経営者や優秀な政治家や官僚がこういった改革を主導する可能性もあるだろうけど。ただ、そうした人々と自分が違う立場に属しているのであれば、その人々と利害が完全に一致することなどないということは知っておいた方が良い。

日本がグループリーグでスペインと対戦してたかもだって!?

W杯が開幕しましたな。といっても僕はサッカーはど素人なので、W杯はちょこっとテレビで見てわーわー言うくらいやけど。

 

まぁそんなレベルだからサッカーのゲーム自体には何も書くことはないんだけど(選手も良く分からん)、そんなミーハーなアナタでもW杯をバーで見ながら隣にいる男女諸兄をナンパするきっかけになる話のネタがありましたよ。これで恋愛をサッカーに例えて「このタイミングは中盤でボールをキープや」、「今日のコンパでは俺がクロスあげるからお前がゴール決めてくれ」などという恋愛偏差値(と文字通りの偏差値)の低い会話をしなくても済む訳ですね。実にありがたい!

 

という訳で本題、「本当だとGL(グループリーグ)で日本はスペインと対戦してたかもよ」、という撒き餌から始まるそれなりに知的な会話。ちなみに元ネタはこれ


Coupe du monde 2018 : comment tricher au tirage au sort grâce à une formule mathématique

 

というかこの記事ほぼこれの紹介。でもこのLe mondeの数学とか統計を駆使したW杯小ネタ集めっちゃおもろいんよなー。他にも、なんでサッカー選手はあんなにシュミレーション(反則されたフリ)すんのかとか、PKでなんで上狙った方が統計的には決まる確率高いのに下に蹴ってしまうのはなぜか、とかあった。

 

さて今回のW杯、GLのB組で優勝候補の一つスペインはこれまた優勝候補のポルトガルと対戦したわけですが、そもそもなんでGLからこの二カ国の対戦なんていう事態になったのか?

A、スペイン(とポルトガル)のくじ運が悪かったから

 

…ということでは必ずしもないんですね!!

 

知ってる人には蛇足だけど、そもそもW杯の対戦方式は、本戦に進んだ32チームがGLで4チームずつ8つのグループに分かれて総当たりし、上位2チーム(×8グループ=16チーム)がその次のトーナメントに進める、という仕組みだ。

その時にグループリーグで強国ばっかりが固まらないよう、本戦に進んだ国でFIFAランクの上位7国(+開催国)、上位8~15位、以下…というように4ブロックをつくって、それぞれのブロックから一カ国づつクジを引いてGLの組を作るようになってるいると。

 

そこで今回のポルトガル対スペインで考えると、あんな強いくせにスペインが第二ブロックに入ってたのが悪い!ということになる。

…じゃあなんでスペインが第二ブロックに入らなければいけなかったかというと、それはその時にスペインのFIFAランクでは上位7カ国に入れなかったから。

…じゃあ仕方がない?いえいえ、実はFIFAランクの算出方法自体に問題があったわけですな。まずそれがどういう算出方法かというと、

 

結果の勝ち点(M)×対戦国のFIFAランク(T)×大陸別連盟(C)×試合の重要度(I)=試合毎の獲得ポイント(P)

 

ここで分かりにくい後者二つを補足しとくと、大陸別連盟ってのは対戦国が南米かヨーロッパかそれ以外(アジアとか)かで係数が変わってくるという話で(ちなみに係数は順に1.00、0.99、0.85)、試合の重要度は親善試合とか地域予選とか、W杯本戦とかいった試合の重要度によってこれまた係数が変わってくるという話。

そしてFIFAランクはこの獲得ポイントについて、過去4年を12ヶ月毎の4つに分け、それぞれの期間で平均値を出し、それらが直近の12ヶ月から100%、50%、30%、20%の割合で計算されて算出される(つまり4年経つとポイントは失効する)。

 

つまりW杯本戦のGLを決めるクジの際のFIFAランクは、クジ以前の12ヶ月間の獲得ポイントの平均点が100%で割合で最も加味されることになるんだけど、ここに大きな穴がある。

というのも、平均点を出すというのは「期間内に行われた全試合の獲得ポイントの合計÷試合数」ということなのだけど、そもそも試合毎の重要度係数が異なるのだから、単純に試合数で割ると重要でない試合(典型は親善試合)を多くしている方が不利になる。

Le mondeの例えでいうと、最高でも10点満点にしかならないテスト(親善試合)と、20点満点のテスト(W杯予選)の平均値を出したら、最高15点という何の意味もない数字が出てくるだけだ。

そしてテストだと受けない選択肢はほぼないが、親善試合だと行わないという選択肢がある(結果テストの平均値は20点になる)。そしてLe mondeによるとその選択肢を行ったのが…ポーランドだというわけ。

 

というのも、クジ引き時のFIFAランクが決まる直近の12ヶ月で、ポーランドが親善試合を一回しか行っていないらしい。対してスペインは3試合。そしてくじ引き後にポーランドは親善試合を6回行い、一時はスペインよりランク下になっている。そうやってポーランドは第一ブロックに滑り込み、GLでは全部格下との対戦になって、スペインはGLからいきなりポルトガルと対戦することになると。かつGLの順位が次のトーナメントの組み合わせにつながっていく…ポーランド恐るべし。

 

というのが「ポーランドがこの戦略を採用してなかったらスペインが第一ブロックに来てGLで日本と対戦してたかも」という話のカラクリなんだけど、まぁ日本の立場で言えば正直ポーランドが来ようがスペインが来ようがどっちも勝ち目ないので関係ねー。それにこの戦略を採用出来るほどのランクでもないのでさらに関係ねー(採用したところで第3ブロックに滑り込みがせいぜいでしょう)。

 

あとさすがにFIFA側もこの算出方法の問題に気づいたらしく、最近計算式を変えたらしいので(どうなったかは知らん)、これは過去の話になるかもらしい。

もう一つ余談で言えば、上の話のロジックでいうと親善試合というのは勝っても大したポイントにならんどころか時期によってはお荷物、ということだけど、連盟&主催側にはかなり大きい収入源になるらしい。そうした金銭面の利益+経験値としての練習試合というメリットと、FIFAランク下げるデメリットを天秤にかけて…ということでしょうか。

 

 

〈OUT〉の前の周辺 書評:桐野夏生『OUT』、1997年

 

OUT 上 (講談社文庫 き 32-3)

OUT 上 (講談社文庫 き 32-3)

 
OUT 下 (講談社文庫 き 32-4)

OUT 下 (講談社文庫 き 32-4)

 

 

本作は小説家、桐野夏生の出世作であり、日本推理作家協会賞を受賞していることからも伺えるように良質のサスペンス作品である。といいたいところなのだけれど、そもそも私は普段小説を読まないし、さらにはその中で特に推理小説を好む訳でもないので、本作を推理小説という視点から論じるのは気が引ける。その代わり、読んでいてあることが気になったのでそのことについて書きたいと思う。

 

前置きとして、全体の話の流れはこんな感じだ。40歳過ぎの主人公で、夫と年頃の息子を持つ香取夏子は、信金の経理の仕事を会社の圧力で辞めることになった後、他に仕事が見つからなかったという理由で(しかし本当は家族との関わりに疲れたという理由で)、今は深夜の弁当工場でパートタイムとして働いている。寝たきりの義母と高校生の娘の面倒を一人で見る寡婦のヨシエ、内縁の夫と共に住みながら激しい浪費癖のため常に借金の返済におわれている邦子、夫と共に小さい二人の子供を育てつつも見た目はまだ美しい弥生の三人と夏子は、弁当工場でいつも一緒に作業を分担する良き仕事仲間だ。公式に編成されたチームではないけれど、工場で共に行動し、作業ラインのなるべくいいポジションをとってあげたり、互いの調子を見て役割を分担したり、何より勤務の前後に仕事の愚痴や他愛ない日常の会話を出来る4人はそれぞれにとって、弁当工場でのつらい労働を緩和してくれる大切な仲間である。

 

その内の一人、弥生は近頃、夫健司との仲が険悪である。健司は仕事が終わっても家には寄り付かず、上海クラブと違法バカラにハマり、新居のためにと夫婦で必死にためた500万円の貯金をすべて使ってしまう。そのことを知らされた弥生は激昂するも、逆に健司に暴力を振るわれてしまう。健司に対して 深い憎悪を抱いた弥生は、翌日、それ自体は本当にふとした言動をきっかけに健司を殺してしまう。我に帰った弥生は夏子に助けを求め、面倒見のいい夏子はそれを承諾してしまう。証拠隠滅のため死体をバラバラにして捨てることにした夏子は、金に困るヨシエを引き込むが、ひょんなことから邦子もそこに巻き込まれ、4人は共犯となる。

 

死体は、処理を面倒がった邦子が自分の担当したパーツを公園のゴミ箱に捨てたことから足がつき、殺人事件として世に知れ渡るも、死体の解体中自宅待機をしていた弥生はアリバイがあり、かつ健司が行方不明前に一悶着を起こしていた上海クラブと違法バカラのオーナー、佐竹は殺人の前科持ちだったために刑事の目は自然とそちらに向く。ここから過去の殺人が明るみに出たことによりクラブもバカラも失った佐竹、邦子の借金取りで邦子と弥生の関係になにかを嗅ぎ取った十文字、などといった人々が事件に関わってきて、夏子ら4人は、ある時は事件の嫌疑から逃れるため、ある時は金のために更なる泥沼にはまっていく。

 

こうして平凡な主婦であったはずの夏子ら4人は、精神的にも社会的にも、そして 半ば自主的で半ば強制的に、どんどん社会から〈OUT〉していくのである…というのが基本的な小説のプロットなのだが、ここで私が気になったのは、「〈OUT〉する以前に彼女たちは既に社会の周辺にいなかったか?」ということである。周辺、というのは、彼女たちが置かれた立場は、それぞれ異なるとはいえ、どれも自分一人で自立するには難しく、かつそうした社会の構造的な歪みを受けて鬱屈した日々を送らざるを得ない状況に置かれているということである。深夜の弁当工場は、そうした主婦たちや、この作品ではカズオに代表される日系ブラジル人移民労働者が集まる社会の周辺をその縮図として表していて、その描写は彼らが従事する作業自体の詳しい描写と相まって、そこに集まる彼らのやりきれなさがひしひしと伝わってくるようである。

 

彼女たちがそもそも社会の周辺に位置している、ということの証左として、例えばこの小説に 、誰一人として世間的な意味で普通の職業につき、それだけでやっていけるほどの収入を得ている女性は一人も出てこない。唯一の例外は信金に勤めていた頃の夏子くらいだが、その夏子にも同期入社の男性社員との間に200万円ほどにもなる給与格差が存在し、それを指摘するような夏子の公平感は社内から疎まれ、結局それは受け入れられない転勤の指示によって退職を半ば強要されることに繋がっている。そして夏子以外の三人にとってはそんな給与格差のある正社員ですら夢のまた夢であり、自分以外に引き受け手がいない育児や介護と両立でき、さらに昼間よりはいくぶん割のいい深夜のパートタイム労働が、考えうる限り最良の選択肢となっている。そのパートタイムの仕事でさえ、夫の収入がなければワーキングプアとして生きていかざるを得ない程度のものなのは明らかであり、それは寡婦であるヨシエの生活を通して描写される。浪費癖が強く自己中心的、そのくせ出来る限り他人を利用して生きたい、といった人物的には全く同情するところのない邦子にしてもこの条件は変わらない。作中で内縁の夫に逃げられた邦子は、借金に首が回らなくなってなりふり構わない行動を起こしていくのだが、その借金ですら40万円程度という、一般的な男性サラリーマンであれば、なりふり構わなくなるには「たかがそれくらいで」と言いたくなるような額である。しかし内縁の夫を失い、自身はパートタイマーである邦子にはその程度の借金を返すあてもないのだ。手っ取り早い方法を好む邦子は、とりたてて能力もない自分が大金を稼ぐ職業として風俗をも幾度か考えるが、容姿にコンプレックスを持つ邦子にはその道すらも用意されていない。

 

平凡な主婦というのは、「主婦」である限り平凡でいられるということなのだ、とこの作品を読むと思わせられる。だからこそ、彼女たち4人が事件をきっかけに社会からOutingしていく時、つまり彼女たちが社会的な平凡さを失っていく時、彼女たちは主婦ではなくなっていくし(もちろんヨシエは始めから寡婦ではあるのだけれど)、そうした状況が、始めは半ば強制的に、しかしもう一方では徐々に、やりきれない現状からの離脱、自由を求める彼女たちの意思となって主体的に選び取られてゆくのである。そして私たちは、そのことに対して彼女たちとともにある種の爽快感を抱くのである。この爽快感はしかし、周辺部での鬱屈の裏返しなのである。その結果が幸か不幸かは、またそれぞれの状況いかんによって変わってくるのだけれど、この作品が彼女の内の誰にも大したハッピーエンドを用意していない(とはいっても一人を除いて完全なバッドエンドである訳でもない)、ということは〈OUT〉の意味のなにがしかを物語っているように私には思われる。

 

さらにいえば本作品の内部に、彼女たちの置かれるこうした状況が、社会の構造の歪みによって引き起こされる困難であるという視点が全く出てこないのも興味深い。もちろん作者の桐野はそうした視点を持っていたであろうし、だからこそこうした設定を選んだのであろうが、本作に出てくる登場人物にはそのような考えを持つ人物は一人もおらず、そして こうした問題意識がないこと自体がごく自然に描かれている。作中で最も頭が切れ、男性との賃金格差を不公平と思う夏子でさえ、 そのことと自分を含めた主婦たちが深夜の弁当工場でパートタイム労働に従事していることが地続きの問題であるとは考えないし、自らも家庭では「主婦」として、家事の一切を自分一人で疑問も持つことなく引き受けるのである。週五日、時間としてはほぼフルタイムで働く彼女たちが語の厳密な意味において「パートタイマー」であり「主婦」なのか、などと問う人物はこの作品には出てこない。

 

1997年の刊行から20年が経って、夏子たちを取り巻く状況は変わったのだろうかという疑問が読後感として浮かんでくる。様々な制度や法律が施行されたとはいえ、彼女たちを取り巻く状況の基本的なラインはそれほど好転していないのではないかと思われる*1それでも私はこの20年の間に、少なくともこの本を読む私たちのまなざしが、彼女たちの置かれた状況に対して、それを他人事として我が身の安寧に胸をなで下ろしたり、あるいは仕方のない困難だと同情したりするのではなく、これは社会的な構造の歪みなのだ、と気づくことの出来るまなざしになったのではないかと、多少の願いを込めつつ思っている。

 

 

*1:状況が好転していない理由を一言で言えば、現状では「男性稼ぎ手モデル」の働き方自体が維持され続け、男女平等はこの働き方を女性も受け入れることでしか達成されないから、となる。その点についての知識は、古くは熊沢誠『女性労働と企業社会』、最近では筒井淳也『仕事と家族』、あるいは濱口桂一郎『働く女子の運命』などに詳しい。

ヴェネチア探訪:三日目

三日目の午前は教会に行った。ヴェネチアには街の人口に不釣り合いではないかと思うほど教会があり、その一つ一つも立派なものだった。そのうち実際に訪れたのはサン・ジョルジョ・マッジョーレという教会だったのだけれど、ここも立派な造りをしていて、一緒に訪れたフランス人の友達が「教会って椅子で埋め尽くされてるのが普通だと思ってたけどここは違うね。」というほどであった。もちろん、教会が建造された当時は街の人口も教会の規模に見合うものだったのかも知れない*1。ちなみにこのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会(噛みそうな名前だ)には高台があって、そこからヴェネチアの眺めが一望出来て凄く爽快なのだけれども、考えてみれば教会に高台って必要なのだろうか。むしろこれは港町としての要請を、それを担うだけの経済的・権力的余裕があった教会が引き受けた、と考えた方が良さそうな気がした。そうなるとますます中世における商業港町としてのヴェネチアと教会との関係が気になってくるけれど、これ以上は仮説が重なりすぎて推論というよりほぼ妄想になるのでやめておく。

 

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  • あんまり椅子で埋まっていない教会

 

 

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  • 高台から観たヴェネチア

 

 

午後はMurano(日本人の名字みたいな名前だ)という中心の島から少し離れた小島に行ってみる。ガラス細工などの工芸品が有名な島らしく、軒を連ねる店はほとんどが工芸品関連だった。工芸品はきれいなものも多く眺めるのも楽しかったけれど(というか買うお金はないので眺めることしか出来ない)、ここまで店がたくさんあるとさすがに「採算取れているのかしら」という気になった。

 

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  • 土産物屋が軒を連ねるMuranoの町並み

 

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  • 日本製のスクリュー(よな?) を搭載した船が多かった。

 

 

ここまで三日間歩き倒して、ふと「凄く奇麗で素敵な街だけど、でもここには住みたいかと言われると疑問やな」と思ってしまった。活気がない訳ではない。年中観光客で賑わっているみたいだし、この時期のヴェネチア・カーニバルなんかは人ごみをかき分けて歩くのも大変だ。ではなぜ住みたくないと思ってしまうのか、その理由を上手く言語化出来なくて、友達に「ここに住みたい?」と聞いてみると「正直に言うとノーね。この街にはダイナミズムがないわ。」と返ってきた。実に的を射た答えだった。そう、この街にダイナミズムを感じないのだ。ここで、「活気があるのにダイナミズムを感じない」という不思議な感覚は、僕が考えた所によれば、おそらく「ヴェネチアという観光地」という性格に由来する。つまり、その街の戦略として伝統なるものを保全し、その伝統を外来の人々が消費することによって成り立つこの街は、自ら革新的なものを生産することがほとんどない。それが、表通りは凄く賑わっている一方で、ひとたび裏通りに入れば閑散としていることも少なくなく、空き家らしき住居が散見され、別荘を持つことはあっても本拠として住み着くことはほとんどなく、この街に子供や若者をあまり見かけない理由なのだろう*2これは近代が始まってからずっと、多くの地方(あるいは地方都市)が抱えてきた問題だと思う。そのような場所には、ダイナミズムという刺激を求める現代のほとんどの人々、とくに若者は、束の間の休暇に骨を休めにくるか、ダイナミズムそのものに疲れてドロップアウトするか、老後の余生を田舎でのんびり暮らしたいか(まぁこれも前の理由とほぼ被っている)というような理由でしか訪れ、暮らすことはないだろう。そういった意味で、ヴェネチアはおそらく限りなく地方に近い地方都市だろう。だから地方都市、そして中央への人口の流出が止まらない*3。現代においてその事に自覚的な人々は、あるいは可能な限り定常的な社会(地方循環型経済など)を志向し、あるいは地方都市にもダイナミズムを作り出そうとする。交通・輸送手段と情報通信技術の発達はそれを可能にする。それがどこまでの射程を持った動きか、そもそもどのような動きとして解すればいいものなのかは、僕にはまぁ正直まだよう分からんという感じだ。

ただ同時に、そもそもこのどうしようもなくダイナミズムを求めてしまう感覚は一種の近代的な病だと言うことも出来る。出来るけれど、一度この感覚を内在化させてしまった個人は、それを諦めるのでない限り、それを自覚的に折衷させていく方向でしかコントロールすることは出来ないように思う。これがオルタナティブと呼べるものかどうかは分からないし、それ以外のオルタナティブを見いだせないのは、おそらく僕自身がそのような個人だからである。

 

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・少し閑散としたMuranoの裏通り

 

変に話が抽象じみてしまった。まぁとにかく、そんな感じでヴェネチアを楽しみ(面倒くさい楽しみ方だ)、出発時刻が迫る中で三日連続となるフリッテッレを食べ、帰って来てからも二、三日くらいの後遺症となった船の揺れを感じながら、ヴェネチアを後にしたのでした。めでたしめでたし。

 

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  • 夕日の沈むヴェネチア

 

 

P.S

観光社会学、面白そうだ。観光地における伝統の創出、維持。人口および経済構造の変遷。中央—地方モデルにおける観光地の位置というラインが特に興味関心に沿うような気がする。学部生の時にも一度、そんなことを扱っているゼミの夏合宿にだけ(ゼミには所属せず夏合宿にだけ。笑)参加して岐阜の郡上八幡にいった事があって、その時も面白いと思ったけどやっぱ面白いな。機会があったら一度集中的に勉強してみよう。うん、これはたぶん当分勉強しない流れだ。笑

 

*1:Wikipediaによれば、1566年から1610年にかけて建造されたらしい。

*2:ただ本島には大学もあるので、それなりに若者も散見される。しかし、住居の数に比べての街の人口やその人口比においての若者の割合は、相当少ないのではないかと思われる。

*3:現実的な理由としては、観光地化が進むことによる地価の高騰、土地規制による開発の自由度の低さ、などで郊外へ人口は流出しているらしい(友達の卒論)。

ヴェネチア探訪:二日目

二日目は本当に街を歩き倒した。ヴェネチア・カーニバルは仮装コンテストとか、仮装した一団によるパレードとかもあるのだけれど、それ以外は自由に仮装して好きに街を練り歩けばいいカーニバルなようらしく、本当にそれぞれ好きに仮装している。そして僕も含めて溢れんばかりの観光客がその人たちを写真に撮っている。

 

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  • 仮装したり踊ったりする人々

 

 

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  • 仮装させられる子供(何かのCMで見たような写真やな)

 

それにしても誰が仮装しているのか。マスクくらいは多くの観光客もするけど、ガッツリ全身着飾るにはそれ相応の知識や準備が必要だろう。何人かに聞いたところによると地元の人と、毎年カーニバルのためにやってくる各地のブルジョワな人々らしい。なるほど、仮面と衣装の隙間から見える肌年齢や体格、身のこなしから察するに中年~初老の人が多い。そしてこの祭りの時期には、本家本元の仮装社交パーティが毎晩どこかで開かれているらしい。なんて怪しさ満点なパーティなんだ。実に潜り込んでみたかった。

ところで、ブルジョワな方々はおそらくヴェネチアにアパートや別荘を持っているらしい。それに気づいたのは、中心広場からほど近い海外高級ブランドの店が立ち並ぶ通りを見たときだった。それまでにもメイン通りでちらほら衣料品店や家具屋が土産屋と並んでいるのを目にしていて、「なんで購買層のメインが観光客の通りに家具屋とか服屋があるんやろ」と思っていたのだけど、なるほどこれはそういう人々が買いにくる店だったのだということにここで気がついた。僕からしてみれば、わざわざヴェネチアで(イタリアのブランドならともかく)フランスやアメリカの高級ブランドの家具や衣類を買う理由がよく分からなかったのだけど、彼らが自分のアパートを持っていてその部屋用のブランド店なのだとしたらその存在にも納得がいく。さらにこの通りを、これだけ街としての独自性・ブランド力を持つヴェネチアですらそのヴェネチアという文脈を離れたグローバルな高級ブランドというシンボルを志向してしまう現代の富裕層におけるメンタリティの現れと見るならば、それは現代社会における一つの示唆的な現象ではあるのかもしれない。まぁこれは推論と偏見の狭間のような話だ。

 

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  • 高級下着店。写真撮ってたら変な目で見られた。当然か。

 

ヴェネチアには生活臭さを感じさせるものがほとんどなかった。少なくとも、それらは観光客の目に触れる範囲には置かないようにされていた。スーパーマッケットも、二日間歩いて街の中心から少し離れた場所に小・中規模なものが2,3つあっただけだし、コインランドリーや不動産屋なんかもほとんど見当たらなかった。徹底されていると言えば徹底されているし、日常が見えないという意味では若干の薄気味悪さも感じた。車がないので運搬はリヤカーで行われていて、それが店の規模に影響しているのかもしれない、なので小さな雑料店は比較的たくさんあった。

 

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  • リヤカー

 

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  • このカーニバルの時期限定のお菓子らしいフリッテッレ。ラム酒が入っていて美味しい。

 

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  • 昼に食べたボロネーゼのニョッキ

ヴェネチアにおける日本人観光客の比率はおそらくだいぶ高い。日本語の看板を掲げる店も多くあったし、大学の選択外国語で日本語が人気だというレストランの店員さんの話は、それだけ実用性があるということの印でもあるだろう。

 

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・街の注意書き:欧州五言語の次に日本語とは、今までどれだけの日本人が訪れて来たのだろうか*1

 

 

*1:実際、ヴェネチアに訪れる国籍別観光客の中で日本人が占める割合は、4.7%と中国人と並んで第5位らしい(友達の卒論)。5年後くらいには中国語の看板も出来てそうだ。