筆不精の備忘録

読書や映画鑑賞の感想を書き留める習慣をつけようと思っていた時期が私にもありました…

ヴェネチア探訪~一日目~

2015年2月7日~9日(移動も含めると6日夜~10日朝)にかけて、イタリアのヴェネチアに行って来たのでその事を書きます。

※始めに文章書いた後に、ヴェネチアに一年留学した学部時代の友達が卒論もヴェネチアについて扱っていて、それを貰えたので楽しく読ませてもらいました。この文章の事実誤認も多々あったので、そこらへんは注で適宜訂正しています(「友達の卒論」ってのがそれ。ちなみにそもそも僕の情報源それとWikipediaしかない。笑)。んー、ちゃんと資料に当たるってステキ。てことで、僕と同じ学部・学年の子でヴェネチアについて知りたくなったらあのイタリアガールへGO!少なくともこの文章よりちゃんとしてて面白いで。笑




終盤何度か同じ道を行き来して多くの乗客に、「これは少し道に迷っているな」と思わせた夜行バスを降りて、駅から電車に乗り、ヴェネチアの主要駅サンタルチア駅に着いて降りると、もう目の前が川だった。恥ずかしながら、ヴェネチアについて何も知らずに、そして何も調べずに来たので(wikipediaすら見ずに来た)、ヴェネチアが島だと言うことも、川に囲まれていると言うことも知らなかった。ヴェネチアについて知っていることと言えば、シェークスピアの「ヴェニスの商人」という本の名前と、その中でユダヤ人商人が非常に意地悪く描かれているという事と、そこから中世は港町として非常に栄えたらしい、という事くらいだった。僕にとって港町のイメージは神戸、福岡(船で行ったことがあるから)、マルセイユなので、まさか港町が島だとは思わなかったのである。

 

ヴェネチアの主要な交通機関は船だった。主要駅であるサンタルチア駅には一応バス停と、少し離れた場所まで直線的に往復するモノレールがあるのだけれど、中心部へ行くともう船で川沿いや対岸、あるいは離れた島に行き来するというのが主だった。そしてそこではもうバスは見受けられなかった。主要駅にあったバス停のバス(複数あった)はどのような路線網を形成しているのだろうかと、ヴェネチアでの公共交通手段が船であるということを知った後に改めて気になった。あるいは、私が訪れてうろついていたのがヴェネチアの中でも特に観光地部分であるだけで、他では普通にバスや車が走っている可能性はあるけれど。

ヴェネチアの中心部は島の中心部を流れる大きな運河と、周囲の海とその運河をつなぐ無数の小川、そしてそれら小川に架かる大小様々な橋や、所狭しと建てられた建造物、その建造物の間を走る小径、小径同士がぶつかる広場、というような作りをしている。

車やバス、鉄道が走っていないことは、おそらくヴェネチアの独特な雰囲気を演出するのに一役買っている。排気ガスや騒音を感じない静かで落ち着いた街の印象、そして伝統的な町並みとの相互作用でもって、人はそのような近代的な乗り物が存在する以前の時代にタイムスリップしたかのような感覚を覚える。街の中心部には蟻の巣のように大小さまざまな小径が通っていて、そのような小径に少し入れば人々の会話も聞こえてこないひんやりとした街の空気を感じることも出来る。そのような雰囲気のもと中世以来の建築物や街の至る所に架かる橋は、季節や天気や気温、時間帯、そしてそれらの変化による光の射し込み具合、あるいは見る角度によって様々に表情を変える。このように様々に表情を変えてくれるからこそ、複雑に入り組んだ小径は私たちのささやかな探検心をくすぐり、架かる橋は町並みを堪能するために私たちを立ち止まらせ、突然開けた視界の眼前に広がる広場で人々は交差し、そして次の小径がまた私たちを誘う。ゆっくりと流れる時間と均質的ではない数々の空間は、紛れもなくヴェネチアの豊かさの一つであるように思われる。

 

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・ヴェネチアの町並み

 

このような意味でヴェネチアは絵になる。絵になるのだけれど、そのように街を描写することはこの程度に留めておく。第一にそれは僕の得意とすることではないし(前段落はかなり無理をした)、第二に僕の興味関心はむしろ、そのような街の雰囲気や構造が人々の暮らしにとってどのような役割を持っているのか、あるいは逆にこのような街が人々によってどのように形成・維持・変化させられて来たのか(行くのか)という人と街の相互作用にあるからだ。といっても、知識が非常に限られているので、分析したりヴェネチアを論じたりというより、むしろ今後知りたいことをいくつか見つけてきた、というような文章にはなるのだけれど。

 

交通手段がほぼ船に限られているといっても、車や鉄道が出現する前は海上輸送が運搬において一回に運べる量・遠隔地への配達速度の両方において最も優れた手段であったのだから*1近代以前にはそれは街にとって落ち着きではなく活気の源だったはずである。この中世における経済的要衝としてのヴェネチアから現代における観光地としてのヴェネチアに至るまでにどのような変遷があったのか、ヴェネチアが衰退した直接的な要因はバスコ・ダ・ガマの喜望岬ルートの発見による港町としての地位低下と、オスマン帝国の侵攻、それにイタリア国内の政治情勢の悪化ということらしいけれど(wikipediaでいま調べた)、海路の覇権から海路と陸路の分業化という、輸送手段の変化とその影響に着目してヴェネチアの歴史を考えてみても面白いかも知れない。

その船も今では、主な交通手段としての水上船(市バスみたいに路線とかダイヤとかのシステムに則って運行している)と、観光客のための手漕ぎボートと、たまに散見されるヴェネチア向け日用品や食料を載せた小さな貨物船しか見られない(このような貨物船もお祭りシーズンだったからかほとんど見られなかった)*2水上船はスクリュー付きの船だったのだけれども、こんなスクリュー付きの船が登場する前は手漕ぎだったのだろうかと気になった。対岸同士は見える距離とはいえ、近いところでも100mくらいはある感じなので、毎度人力で行き来するのはしんどそうだ。船のチケットを見ると、「since1963」と書いてあるので、船で毎日ダイヤ通りに対岸を行き来するこのサービスが始まったのはおそらく50年前からだということになる。その以前はどうなっていたかが気になったのだけれど、イタリア語が話せないので結局聞けずじまいで終わってしまった(今から思えば英語ででも聞けば良かった)。

 

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  • 水上船待合室。上の黄色い広告は、アラビア語圏への送金を請け負う会社の広告で、すべての待合室の上部がこんな感じだった。実際、街ではムスリム系っぽい人々が開く露店も街でよく見かけた。

  

中心部は前述したような雰囲気に満ちていて、結局3日間かなり歩いたのだけれども全然飽きなかった。観光地中の観光地なのだけれども、僕も一緒に行動した友達もあまりキッチリとプランが組み立てられすぎた旅行を好まなかったので、実に適当に歩き倒した。あまりに観光地化されたカフェやレストランは値段も高いし*3観光客しかいなくて観るものに欠けるので(ただ見方を変えれば観光客を通してのヴェネチアを見ることも出来るので、必ずしも面白みがない訳ではない)、地元の人が行くような気軽なカフェでもないものかと道行く人に聞いたら、「完全にローカルな店なんかここにはないわ。地元の人だけでやっていけるほど私たちの人口は足りてないもの。」と言われてしまった。このとき僕は正直、痛いところを突かれたな、と思った。僕は前述したような興味関心から、基本的にどこに行ってもローカルに紛れたい志向が強いのだけど、それは観光地という街の性格と(完全に両立不可能でないにしても)折り合いが悪い志向なのだと思った。

つまり、街の表層を流動して行く観光客に経済的に大きく依存する観光地という街は、この観光客も含めて一つの街を形成しているのであって、この観光客に合わせて作られた「ヴェネチア」やその「伝統」がいかに表層的なもの、あまりに作られすぎていると違和感を覚えるものに見えても(僕に取って一番しっくりくる大阪弁で言えば、「いかにコテコテなものに見えても」)、そこから切り離されたローカル性を求めても、それは単にそのような一つの観光のあり方として回収されてしまうものなのだろう。つまり僕が求めていたような深層なんかない。そこにあるのは、表層(伝統、観光客、観光地)−深層(表向きの伝統なるものも演じつつ、必ずしも娯楽性に満ちたものとは限らない単純な生活様式としての伝統を生きる地元の人々)という垂直的な関係ではなく*4束の間の非日常を謳歌する観光客と、その彼らにとっての非日常をも含む日常を生きるそこに住む人々の相互的関係を、一つの全体として体現する街があるに過ぎない。従って、もし僕の興味関心がその街とその街に生きる人々を理解することにあるのであれば、考察すべきは存在するはずのない「観光客から切り離されたローカルなヴェネチアの部分」ではなく、「そのような観光客をもその街の性格に不可避的に組み込まざるを得ないヴェネチアという街そのもの」ということになるのだろう*5

 

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  • レベル高すぎたヴェネチアのユースホステル

 

 

*1:現代でも交易手段としての海運のこの強みは重要なものだけれど、他の輸送手段がない時代においては現代から考えれば近い距離・あるいは小規模な貨物でも船で運んでいたに違いない。

*2:2015年1月から(つまり訪れるつい1ヶ月前)、環境面への配慮から大型客船の乗り入れが規制されたようです(友達の卒論)。規制させる前に訪れていたら、また受ける印象変わってたんだろうな。

*3:例えばヴェネチアには世界で一店舗目らしいカフェがあるらしいのだけど、看板を見るとコーヒー一杯が6,7ユーロもしていた。にもかかわらず観光客で溢れていた。ブルジョワめアホ。笑

*4:もちろん、旅行者の主観的な感覚としてはあるだろうけれど(少なくとも僕にはある)、ここで言いたいのは観光地という街の性格である。

*5:実際ヴェネチアにとって洪水のように押し寄せる観光客問題は深刻らしい。友達の卒論のテーマもそれだった。彼女が「もはやディズニーランド」と喩えていた ので「上手いコト言うな」と思っていたら、本当に「ヴェネチアランド」計画なるものが揶揄も含めて存在するらしい(友達の卒論)。

散髪をする。

私はフランスに来てから、自分で髪の毛を切っている。

セルフカットというやつである。

 

コトの始まりはこうであった。

フランスに来るにあたって、散髪は一つの(といっても大したものではないけれど)懸念であった。

私は日本では色気付きだした中学生の頃からずっと美容室で散髪をし、時には染髪をし、時にはパーマをかけ、ぼんやりした薄い顔立ちを髪型でカバーしてきたといっても過言ではないカット人生を歩んでいた。

行きつけの美容師さんは中学から10年間通っただけあって、私の「○○な感じで」という適当なオーダーにもド真ん中で答えてくれるほど私の髪を熟知してくれていた。スマホアプリのぷよぷよでその美容室のスタッフで形成されているチームに誘われるほど気心の知れた仲だった。

フランスではそんな適当なオーダー通んないだろうな、という不安と共に一つの噂話が私の頭をもたげていた。

 

「知り合いが海外で髪の毛切ったらビートルズみたいになったらしいで。」

 

いつどこで誰から聞いたかも分からないもだが、内容だけ覚えていたのである。

常識的に考えれば、海外ってどの国やねんってなるし、いつの時代の話やねんってなるし、そもそも外国人が全員ビートルズみたいな髪型をしていないことを考えれば噂話の真偽は明白である。

噂話の実際は、件の知り合いの人がオーダーをうまく伝達出来なかったのかも知れないし、担当した美容師さんが熱狂的なビートルズファンだったのかもしれないし、はたまたその知り合いがジョージ・ハリスンだったのかも知れないだけである。

 

しかし思い込みとは怖いもので、漠然と、「散髪してビートルズみたいになったら嫌やなぁ。そんな散髪屋が跋扈してるってことは日本ほど髪型に興味ないんかな。アジア系以外の人って顔立ちがはっきりしてるから髪型が適当でも許されんのかなぁ。」などと思っていたのである。これは社会科学を学ぶ学生にあるまじき偏見であり、とくに後半は単なるコンプレックスの吐露である。

これにあと経済的な理由を加え、海外に行ったら自分で散髪してみてもいいかなと思っていたのである。

 

そんな話を出国前に何気なくしていたら、バイト先の常連さんの一人に美容師さんがいらっしゃり、その常連さんからプロ用のはさみを餞別として頂けると言うことになったのである。自分が仕事で使うようなレベルの、数万円もするカット道具一式である(カットばさみとスキばさみ、くしに髪留めにエプロンまでついていた)。

そしてこの瞬間、私のセルフカットライフが運命付けられたと言っても過言ではない。

 

出国直前に髪を切ったので、フランスで過ごし始めて1,2ヶ月経った頃、初めてのセルフカットの日がやってきた。といっても自分の「そろそろ切ろかな」というさじ加減で訪れた日であっただけなのだけれども。

セルフカットなんてしたことがないので一通りググってみて、大体バリカンでのセルフカットの方法しか紹介していないという現状に何の役にも立たない知識を得た後、「まぁ髪型変える訳じゃなくて伸びたところ切るだけやから大丈夫やろ」と開き直って私は浴室に赴いた。

切った髪が衣服に着くことが嫌だったので、パンツ一丁にエプロンというほぼ裸エプロンさながらの仕上がりであった。こんなに誰の性的興奮も喚起しない裸エプロンも珍しい。

 

散髪し始めて改めて思ったが、さすがプロばさみ、切れ味がまるで違う。常連さんから、「耳切らんよう気ぃつけや」「そんなどんくさいことしませんよ」と受け取ったが、そんなどんくさいことになる可能性を多いに感じさせる切れ味である。

 

そして切り続けるにつれ、少しずつ違和感が出てくる。あれ、私こんな髪型だったかしら。私もう少し左右のバランス良かったんじゃないかしら。もう少しぱっちりした目をしてたんじゃないかしら。もう少し鼻筋の通った掘りの深い顔立ちしてたんじゃないかしら…。つまり髪を切る前はもう少し男前だったんじゃないかしら、などと思えてくるのである。

これが真実であれば散髪前の私はオダギリジョーみたいな顔立ちをしていたことになるが(別にオダギリジョーでなくともお好きな男前を想像しておいてくだされば結構です)、冷静に考えれば(冷静に考えなくとも)目や鼻筋は散髪でどうこうなる問題ではない。

 

つまり、プロばさみを全く使いこなせていないのである。今まで工作ばさみか裁縫ばさみしか使ったことがないのだから当然である。あぁ数万円の価値はどこへやら、もはや「完全に身に余る物を与えられてしまった状態」として、「けんちゃんに美容師ばさみ」ということわざでも出来そうな勢いである。

しかし残念、その界隈には「豚に真珠」、「猫に小判」、「馬の耳に念仏」等々ことわざ界の大御所たちが鎮座していらっしゃるので、「けんちゃんに美容師ばさみ」が市民権を得ることはないであろう。

 

結局、2時間ほど浴室で格闘したあと、ナルシズムを通り越して正直もうお腹いっぱいになった自分の姿を鏡で見ながら、私は心の底から思っていた。

「美容師さんって偉大やねんな…」

 

世の中には「あれ、髪の毛切ったの?似合ってるね。」という社会的儀礼が存在するが、そのような状況で私は今後、「あれ、髪の毛切ったの?似合ってるね。(けれどもそんな髪型になれたのも一重に美容師さんのおかげであって決して自分の顔が良いなどと思ってはいけないよ。真に褒めるべきはあなたではなく美容師さんだよ。)」と言うであろう。括弧内を実際に口に出さないのはもちろん、むやみやたらに友達を減らさないためである。

 

ちなみに、フランスに来て3回ほど散髪しているが未だに誰にも気づかれたことがない。ただ気づかれていないのではなく、

・気づいて声をかけてくれるほど親しい友達がいない。

・気づいているけれど褒めようがない惨状なのでそっとしている。

という可能性も多いにあるけれど、まぁそれはそれである。

 

ちなみにちなみに、私の住む町には美容室自体はものすごくいっぱいある。もはやコンビニ感覚であるので、「採算とれてんのかいな」と訝しくなるほどである。カットしに行くことはほぼないであろうが、採算の取り方は知りたいと思っている。

 

そんな髪の毛事情でした。

 

 

 

郵便物を受け取る

10月の下旬に家族から送られてきた郵便物を受け取った。だけの話である。

なのでフランスの郵便物受け取り方的な情報をご所望の方は、他に手際よくまとめて下さっている方々が居るのでそちらを参考にして頂きたい。

 

渡仏の際に荷物がスーツケースに入りきらなかったので(あと重量制限を超過するので)、冬服など着いてすぐ必要の無い物は後日郵送してもらうことにしていた。

着いてこちらで生活し始めると、生活品が非常に高いことに気づく。日本の100均で売っているタッパーやピーラー、ボウルなどがこちらでは(物にもよるが)普通に4,5ユーロする。海外から来た旅行客を100均に連れて行くと喜ぶ、という気持ちを初めて心の底からなるほどと納得した。

一緒に生活品を買った日本の知り合いは、「安く作れる国持ってへんのかな?」と、中々キワドい発言をしていたが、まぁ単刀直入に言えばそういう事なのかもしれない。ただユーロ圏より安価で製品を作れる貿易相手国は普通に持っていると思うので、なおさら気になる。ということでこれは「気になるリスト」に入れている。

 

という事情で、冬服を送ってもらう際に生活品諸々も送ってもらう事にした。その結果荷物が非常に重くなり、「家にある段ボールに2つ分くらいです。送料がめっちゃ高かったです。」と郵送完了の報告なのか苦情なのかよく分からないメールと共に荷物は海を渡ることになった。

 

しかし届かない。待てど暮らせど荷物が届かない。当初は安い船便で良いと伝えていたが、郵便局でそれは2,3ヶ月かかる上に届くかどうか不確かではないと言われたため、「時間がかかるのはまだしも届くかどうか分からないのは流石に…」と思った母はSAL便という安い飛行機便に変更してくれていたのである。2週間ほどで着くと言われていたはずが1ヶ月近く経っても着かないので、訝しく思っていたところ、自分より後に送ってもらったらしい他の日本人の子がもう着いたと言っている。

 

そういえばつい先日Amazonで買った本も、ポストに不在通知が入っていて郵便局まで取りに行かなければいけなかったので、今回もそうかもしれない。今のところ不在通知は入っていないがとりあえず郵便局に聞きに行ってみよう、と思い、母から郵送の際に荷物番号のようなものが無かったか聞いてみる。すると、その番号と共にゆうちょのホームページで荷物の配達状況を確認出来るらしい、との情報を頂く(彼女はパソコンが使えないので確認は出来ない)。「早めに教えて欲しかったな…」と思いながらホームページを見てみると、既に8日前から街の郵便局で長期熟成されていることが判明する。寝かせたところでコクが出る訳でもないのに。フランスの郵便局には予め指定した保管期間を過ぎると差出人に送り返されるというシステムがあり、今回はあまり深く考えず適当に2週間と設定していたため、熟成期間は残り6日である。「こらはよ行かなあかんやんけ…!」とその翌日にさっそく郵便局に向かうことにした。

 

郵便局を訪ねた日は金曜日だったので、普通に営業日のはずだったのだがなぜか閉まっていた。同じく訪ねて来た人に聞いてみると、「ストライキよ」とか「たまに臨時休業するのよ」とか安定しない答えが返ってくるので、とりあえずその日は諦めて翌日また来ることにする。

 

翌日は土曜日で午前営業だけなので午前中に行き、荷物番号を伝えるが、「この番号では駄目だ。検索に何も引っかからない。他の番号はないのか。」と言われる。「そんな馬鹿なはずは無い。ここにあるとゆうちょが言っているんだ」と、ご丁寧にゆうちょの簡単な説明まで加えながら粘りに粘るが結局見つけてもらえない。

 

1,2時間粘っているうちに、営業時間が終わりを迎える。「おいおい…」と思いながらカウンターの脇で途方に暮れていると、最後の荷物の受取人が日本人だったので(受け取りの際にパスポートを出すので国籍が分かる)、「これは渡りに船や」と思って聞いてみると、凄く丁寧に教えてくれるものの、結局見つけられない。係の人になんかこういうときの連絡先はないですかと聞くとChronopost(クロノポスト)というフランス郵便局の子会社で海外便を担当している会社の連絡先を告げられる。

 

土曜日で電話も繋がらないので、受け取りの手順を予習しようととりあえずネットでクロノポストと検索してみると、出てくる出てくる、フランス郵便に対する苦情が。子供のときに公園で石レンガをひっくり返したときの昆虫のようにうじゃうじゃ出てくる(食事中の人ごめんなさい)。もはや受け取り方の情報より苦情の方が多い。

 

「これはめんどくさいことになってきたで…」と思いながら家に帰ると、母から「保管期間を過ぎて送り返されてきた場合、送料が高いので再送はしません。」と追い打ちが来ている。シビアだ。あれはどうやら苦情の方だったらしい。「これでは冬を越せんぞ…」と思っていたが、何のことは無い、フランスの方の郵便局で検索をかけてみると、なんとその荷物番号がフランスの荷物番号らしき別の番号に変換されていた。「…こいつだ、こいつに違いない」と思うものの、翌日は日曜日で休みだし、月曜日は授業が詰まってて取りに行く時間が無いので、火曜日に行くことにする。熟成完了のタイムリミットが刻々と迫る。

 

と思っていたところ、月曜日に学校から帰ってくると、ポストに不在届けが3枚入っていた。見ると、配達の日付が11日前(つまり荷物がフランスに届いたはずの日)、6日前、月曜日となっている。どうやらフランスの郵便配達人は我々と違う時間軸を持っているらしい。私が郵便局で粘る姿を見ていたとでもいうのか、実に興味深い現象である。一刻も早い原因究明が待たれている。待っているのは私だけだが。

 

そして火曜日、もはや日課と化しつつある郵便局への訪問である。カウンターで荷物番号が記載された不在届けを差し出すと、出てくる出てくる、実に簡単に荷物が出てきた。ついでに数日前にこれまたAmazonで買った本も一緒に渡された(不在届けの一枚はそれだったらしい)。ただ段ボールが一つだったので、「もう一つ段ボールがあると思うんですけど。」と伝えると、局員さんが再度探しに行くものの、見つからないと言われる。「いや、二つあるはずです。」と言うとまた探しに行く。不在届けあったのに変だなと思い、日本時間で21~22時だったので、姉に「もしかして段ボールって一つ?」と聞くと即座に「一つ」と返ってくる。段ボール二つ分(くらい大きい段ボール)やで!ということだったらしい。分かるはずがない。なんて紛らわしい説明をするのだ。一休さんか。そんなことより局員さんに対して申し訳ない、早く伝えよう、と思っていると、少し息を切らした局員さんが戻ってきて、私が口を開けるより早く「もう配ってるから」と冷たく言い残し消えてしまった。消えてしまったので、まぁそもそもはあちらの不手際だしいっか、と思うことにして郵便局を後にした。

 

そんなこんなで重い荷物を抱え家まで戻り、段ボールを開ける。タッパーやプラスチックボウルでこんなに感動したことは未だかつて無い、というほど感動した。大航海時代にアメリカ大陸で初めてトマトを見つけたスペイン人の気持ちが分かるほどである。食生活が激変する。

…ということで、無事荷物を受け取れましたという話でした。
めでたしめでたし。

しまなみ海道まっしぐら②−大阪~神戸~高松−

「あれだけだらだらと文章を書いておきながらまだ出発すらしていないのか…」

そう思われた方は勘が鋭い。つまり読んでいる人ほぼ全員勘が鋭い。氏は寄り道をすることが大好きな人間である。子供の頃からなので仕方が無い。寄り道に夢中になりすぎて目的地に行くことを怠ることさえある。そんな氏を見て、寄り道で人生終わるんじゃなかろうかと訝しく思う向きも多い。そんな彼らに対して、「人生に本源的な意味などないのだから寄り道を楽しんだ方がいいじゃないか!そのうち繋がってくるのだ!寄り道こそが人生なり!」と、氏は一旦拳を固く握りしめるものの、その拳は未だに親のスネを齧っているという事実がそっとほぐす。

…そしてこの話すらも寄り道である。寄り道の話をもってブログ記事の寄り道をするというメタ構造。というか無意味な言葉遊び。氏の文章を楽しめるかどうかはこの無意味な、しかし「飴玉を舌の上で転がすように言葉の感度を確かめているのだ」というしっくり来るのか来ないのか定かではない氏の喩えのような、そんな言葉遊びを楽しめるかどうかである。ちなみに姉は、過去に氏の文章を「んー、めんどくさい!」と一蹴したことがある。

 

話を戻そう。

家を出発して、氏はすぐには神戸港へは向かわなかった。どこへ向かったか。フランスに行くまで3年と3ヶ月働き、ついこのロードバイクで旅行をする前週、円満に辞めたアルバイト先に向かったのである。ちなみに串焼き屋さんである。ここは今まで10種以上のアルバイトを経験してきた氏が一番長く働いた場所であり、そしてアルバイト以上の関係を構築出来た場所である。カウンター12席のみという店のスタイルとも相まって、客には常連のなじみ客も多く、氏はここで思う存分彼らにイジら…可愛がって頂いた。

そんな方々に自分だけ盛大に送り出して頂くのも申し訳ないので、氏は辞める際に常連客の方々にメッセージカードをしたためた。健気である。たまには氏も素直に感謝の意を示すのである。

その中に姫路で泊めて頂く方へのメッセージカードもあったので、どうせならそのカードを渡しに来たという名目で泊まらせてもらうことにしようと考えたのである。感謝の意を示したカードを渡すために遠路遥々チャリンコを漕いで来たとは、涙ちょちょ切れる話ではないか。24時間テレビのプロデューサーがこの話を小耳に挟んでいたら撮影をオファーしてきたに違いない。「これは歓待されるぞ〜」氏は鼻息を荒くした。前段落とは打って変わった下衆さである。

 

そんな事を考えながら、バイト先の暖簾をくぐる。店長に「変なん来た」とご自慢のサイクルジャージを馬鹿にされながら、事情を説明する。旅程を話すと、居合わせた常連さんが「えー今から自転車で神戸港まで行くんですか。学生にしか出来ないことですね。」と言う。「たしかに学生にしか出来ないことではありますが、それは年齢的・時間的に可能であるという話であって、こんな馬鹿なことを昨今のすべての学生がしている訳ではないですよ。誤解しないで頂きたい。僕ももし友達が似たようなプランを話したら、「おいおい落ち着けよ。夜明けを待とうぜ。」と忠告しているでしょう。」と氏は思ったが、こんな屁理屈を言っても間違いなく嫌われるだけなのでそっと飲み込むことにした。

 

そうしてメッセージカードを手に入れた氏はようやく出発する。結局23時前になってしまった。神戸港まではスムーズに行っても1時間半ほどかかる。そして氏は神戸港の正確な場所を知らないのでスムーズに行くはずが無い。繰り返すがフェリーは25時発である。「あ、あかんやん…」単純な帰結として氏は急いだ。十三~尼崎から国道2号線に乗り、西宮や芦屋を越え、通い慣れた大学の近くを通り過ぎ、神戸付近からはGoogleマップを頼りに頼ってようやく氏は神戸港にたどり着いた。その間ずっと、背中に母の握ったおにぎりの温かみを感じながら(サイクルジャージは走行中に物が落ちないよう、背中にポケットがついているのだ)。「温かみは有り難いが、それを背中に感じるのは少し気持ち悪い。何より自分の体温でおにぎりが傷まないかが懸念されるな。」氏は走行中こんなことを考えていた。

神戸港に着いた時、時刻は24時半頃であった。タイムとしては上々である。ただ惜しむらくは、もはや明日の明朝からロードバイクを漕ぐ気力などとことん削がれていたことである。気を取り直しフェリーターミナルの受付に乗車券を買いに行った氏を待ち受けていたのはこれであった。

 

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「どっちも燃えるゴミなんかい…!」
と声に出したい気持ちを抑えて、サイクルジャージのままいそいそと一人写メを撮りながらそんな自分を俯瞰的に眺めて、氏は少し切なくなった。自分を俯瞰的に眺めるのは必ずしも良いことばかりではない。

船乗り場に行くとバイクで来た方々と一緒の場所で待たされる。待たされる待たされる。待たされること結局、26時頃まで待たされた。大幅な遅延である。「ば、馬鹿野郎…急いだ俺の体力を返せ…!」と氏は思ったが、フェリーの遅延に「体力を返せ!」とクレームを付けられてもフェリー会社の方々が困惑し、さらなる遅延を引き起こすことが予想されるだけであろう事は、ワカメちゃんのパンツが見えているかどうかという事ほど明白なので、氏は「お疲れさまです」と係の方々を労いながらおとなしく乗船することにした。

 

船内は畳が敷かれた2階部分と、前にテレビの大画面があるソファー席で埋まった1階席と、その他諸々の娯楽スペースという構成になっていた。深夜便ということもあり、畳では多くの乗客が雑魚寝している。氏も明日に備えて雑魚寝をすることにした。周りの乗客からサイクルジャージに好奇の視線を浴びるが、そんなことを気にしていてはロードバイクで旅行など出来ない。それより長袖ないから寒い。そんなことを思いながら氏は眠りについた。そして午前4時半頃、畳であまり寝付けなかったのか、おもむろに便意を感じた氏はトイレへ向かう。そして次の瞬間、氏は完全にトイレで体調を崩していた。お腹痛い。頭ぼーっとする。変な汗出る。のトリプルコンボである。薄ら寒い深夜にチャリンコを漕いだのがいけなかったのか、汗をかいた服を着替えないまま寝たのがいけなかったのか、とにかくあと1,2時間後から数日かけて計5~600kmもチャリンコを漕げる体調ではない。「高松に着いたらすぐ神戸行きに乗ろう」根性のない氏はそんなことを考えながらトイレにこもり、少し落ち着いたところでソファー席に移動して、そのまま寝ていた。

 

「お客さん、高松着きましたよ。次このまま小豆島に向かって出発してしまいますよ。」という係員さんの呼びかけで氏は起こされる。「小豆島まで行かれては船の本数も少なくなる。それは困る。」と思い、とりあえず下船する。

 

下船すると、思ったより体調が回復していることに気づく。結局、すこしまだ具合は悪いが、せっかく四国来たし、このまま帰ってもお金と時間もったいないし、このままここに居てもすること無いし、まぁとりあえず漕ぎながら考えよう、というなんとも消極的な形で氏のロードバイク四国旅はスタートする。

しまなみ海道まっしぐら①−出発−

「もうええ、行ったる。」

パソコンのモニターを前にして氏は半ばやけくそな様子で決意を固めた。時刻は午後8時37分、出発まで残された時間はあと1時間半にも満たない。

氏はそんな夜分からいずこへ旅立とうとしているのか?四国は高松である。なぜそんな夜分遅くなのか?高松行きのフェリーが深夜1時に神戸から出発するからである。

そしてなぜ高松に行くためにそんな決意を固める必要があるのか?それは氏のしようとしていることがロードバイクでの4泊5日の弾丸旅行だからである。

 

旅程は、

28日の深夜に自宅から神戸港まで走り(30km)、

29日の未明に高松に着き、その日に松山は道後温泉まで走り(160km)、

30日に道後温泉から今治、しまなみ海道、尾道を経て福山まで走り(140km)、

31日に福山から倉敷、岡山を経て姫路まで走り(140km)、

1日に姫路から明石、神戸を経て大阪の実家(100km)

へ帰ってくるプランとなっている。

 

なぜこんなことになったのか。それを説明するには時計の針を少し戻さねばならない。

8月26日までの3週間、氏は某女子大の夏期集中フランス語講座を受けていた。

一部に周知の事実として、氏は9月上旬からフランスに留学することが決まっている。大学院のコースである。つまり留学というか進学である。

しかし氏のフランス滞在経験は、大学院の下見という名目によるパリでの2~3週間のみである。ここで名目という、その実はおそらく異なるではないかという読者諸兄の推察を惹起するタテマエ的な用語を使った理由を述べておこう。

事実はこうである。大学院の下見といいながら氏はどの大学の授業も見に行かなかった。なぜなら年末で大学はどこもかしこも休業中だったからである。ではなぜそんな時期に行ったのか。氏の大学の冬休みもそこだったからである。そんな小学生でも回避出来るような阿呆な所業を果たして下見と言えるのか。曰く、「あの時はフランス留学を考え始めた時だった。しかし行ったこともないよく知らない国に進学しようとしても少し不安が残るし、そもそも勉学のモチベーションも湧かないから、一度とりあえず見に行ってみたのだ。」これでは単なる西洋見物である。事実そうだった。大してお金もないのに行ったので、現地で何を買うことも観ることも出来ず困窮した日々を送る羽目になった。ただひたすら街を練り歩くという文字通りの方の西洋見物である。加えてこの頃の氏はまだ初級文法すらも習得していなかったため、大学の授業どころか誰のフランス語も全く理解出来なかった。もはや思い出したくもない記憶である。

 

まぁこんな話はどうでもいい。とにかくそのようなフランス経験の下、氏はフランスの大学院に直接進学しようとしていたのである。氏は自らの語学力に絶対的な不安を持っていた。特に話す・聞くという点において。「日本に住んでるのにオーラルは勉強しづらいじゃないか」とは勉強から逃げる氏の言い訳である。そこでフランスに旅立つ前に、なんとかしてこのオーラル能力とやらを少しでも改善しておきたかった。

 

…というのが、氏がフランス語講座を受けた名目である。「また名目かよ」と思われた諸兄は察しが良い。実際、このようなバックグラウンドのもと、数万円という氏にとってかなり高い受講料というハードルを超えてこの講座を受けさしめた決定打は、十数年前に本講座に通った大学の先輩からの「女子大に合法的に入れるチャンスなんて他にないですよ」という一言だった。

確かに。女子大に入れるチャンスなんてそうそうない。授業を受けるチャンスなんてもっとないだろう。数万円の受講料は今の自分にとってはとても高いが、10年後の自分にとって女子大に3週間通えるチケットとしてなら安いくらいだ。しかし10年後の自分に3週間も女子大に通う時間はおそらくない。…今しかない。今しかないのだ。女子大生と机を並べて授業を受け、分からない箇所を互いに教え合い、楽しく語らいながら昼食を共にし、放課後に肩を並べ下校し、あわよくば放課後にカフェで談笑したり休日にデートの約束を取り付けたりなどする機会は、今を置いてこの先もうないのだ。沸々と込み上げる感情。「最後のチャンス」という言葉と共に寂しさと興奮が氏の胸に渦巻いた。

そんな様子で鼻息を荒くして女子大に向かった氏をクラスで待っていたのはしかし、フランス語に真剣に取り組むマダムの方々であった。フランス語を一応真剣に勉強していたのがアダになった。女子大生はほとんど皆入門クラスでの受講だったのだ。
「お、思ってたんとちゃう…!詐欺られた…!」と大学の先輩に筋違いの恨みを抱きながら氏は、結果として、「真面目に勉強に取り組む環境」という本来の目的を達成したのであった。

 

話がそれた。戻そう。

26日にフランス語講座を終え9月4日に決まった出国の日までの間に、氏はロードバイクで四国を一周しようと考えていた。なぜか。理由を説明すると以下のようになる。

ロードバイクは氏の数少ない趣味の一つである。風を感じながら走る爽快な運動であるという点に加え、(日帰りから数泊の旅行までを含め)電車や車とは違った形で、どこかに出かけて様々な土地を訪れることが出来るというのが氏にとっての大きな魅力だった。

そしてフランスはツールドフランスでも知られる通りロードバイク大国である。様々なコースがあり、自転車での旅にも国民的理解があり、行ってみたい場所もたくさんある。

この条件が重なった時、氏に残された答えは「チャリを持って行く」という以外になかった。そして氏は必死でチャリをフランスに持って行く方法を探す。他にすべきことがあるのに。ネットをくまなく調べ、ロードバイクショップに聞きに行き、結果、持って行くためには飛行機の預け入れ荷物にスーツケースかロードバイクを梱包した段ボールのどちらか一つを選ばねばならないという結論に達したとき、氏は少し悩んで前者を選ぶことにした。しかし今まで可愛がってきた愛車との名残惜しい別れに氏は寂寞の思いを抱かずにいられない。集中フランス語講座という勉強の日々が終わり、フランス現地でまた怒濤の勉強の日々が始まるまでの最後の時間を、どうしてロードバイクでの旅行というバカンスに使わずにいられようか。氏は次第にそう考えるようになった。そして日に日に高まって行く興奮を抑えながら、氏は丹念に四国の地図をチェックするようになっていった。他にすべきことがあるのに。

 

当初は高松から徳島方面(右回り)に一周するルートであった。これは距離的にどんなに頑張っても一週間かかる。少なくとも夜は人里に泊まろうと思うのであれば。結果、氏の旅程は27日~9月2日の予定であった。なんらかのアクシデントがあって帰宅が遅れ飛行機に乗り遅れるという前代未聞の醜聞を晒さぬためにも、さすがに前々日までには帰ってきたいので、これが唯一の旅程だった。

しかしコトは上手く進まなかった。26日にフランス語講座を終え、28日まで氏は自宅軟禁を余儀なくされる。準備すべきことを残しすぎたのである。実に本末転倒である。「本末転倒とはこのことか…!」と思いながらも氏はいそいそと日用品を買い集め、部屋を片付け、衣類を選別し、図書を選別した。そしてもうロードバイクでの旅行などというそもそも無謀な所業を諦めかけていた28日の夕方、氏はふと思いつく。「高松から上に周るルートなら行けるんちゃうの?」パソコンでルートを調べる。…行ける。上を回るルートなら今晩出れば1日に帰ってこれる。しかし駄目だ。他にすべきことを残しすぎている。まだ全然荷造り終わってない。部屋も片付けてない。着いてから大学院で授業が始まるまでの流れも把握していない。ていうかお前まだフランスで住むとこも決まってないじゃないか…

 

そして2時間ほど準備と逡巡を繰り返すという悶々とした時間を過ごした後、ルートを最終チェックしながら氏は冒頭の台詞を発するのである。

 

決断してからの氏は早かった。

サイクルジャージというロードバイク専用の服と、歯ブラシやシャンプーなどの日用品、夜間着…など諸々を用意し始める。時刻は9時過ぎ、家から神戸港まではロードバイクで2時間ほどかかるから、余裕を持って深夜1時発のフェリーに乗るには10時くらいには出発したい。

準備をしていると仕事を終えた姉と母が帰ってくる。「一時間後に四国行くから」と告げると、理解に苦しんだ顔をする。無理もない。氏ですらあまり理解せず決断したのだから。

「あんた何に縛られてんの?」と姉が言う。もっともな意見である。「こんな夜遅くからやめときなさいよ」と母が言う。もっともな意見である。

氏は答える。「案ずるより産むが易しやで。物事には遡及的に分かることの方が多い。」氏は時折、人生の苦節を重ねた老賢が発するような深い言葉を全く深くない文脈で用いる。悪癖である。

 

「あ、そうそう」と言いながら氏はおもむろに電話をかけはじめる。相手は大学時代の友達と元バイト先の常連さんである。友達はUターン就職を選び福山からほど近い広島は府中の実家に住んでいる。常連さんは結婚し姫路の実家に住みながら自営業を開業し営んでいる。そう、お金のない氏は彼らの家に泊めてもらおうとしたのである。

友達に電話をかける。「30日に泊めてほしいねんけどどない?」「悪い。ちょっとその日は家いないんよな〜。」「(久しぶりに会うんだから家に帰ってこいよと思いつつ)へー、どこにおんの?」「仙台に出張なんよ。」…行けない。いくら氏が健脚ゆえにロードバイクでの旅行を試みているとはいえ、流石に仙台にまでは行けない。「そうか、全然問題ない。出張頑張ってくれ。」と言い電話を切りながら、氏の心は折れかけていた。予算がキツくなる。そしてなにより自分を待っている人がいるのといないのとでは、日中ペダルを漕ぐモチベーションが変わってくる。やっぱやめようかな…。そう思いながら元常連さんに電話をかける。「あのー、良ければ日曜日に家に泊めてほしいんですけど…」「ええで。」決行である。氏はストレッチを始めた。母はもはや観念したのか、おにぎりを握ってくれている。そしてそうこうしているうちに10時半近くになり、慌てて荷物をまとめ、ロードバイクの空気を入れ、氏はその場に居合わせた母と姉に告げる。

 

「ほな行ってくるわ〜」