筆不精の備忘録

読書や映画鑑賞の感想を書き留める習慣をつけようと思っていた時期が私にもありました…

Promising Young Women (プロミシング・ヤング・ウーマン)

2021年6月鑑賞。

バーとかクラブで酔いつぶれた美女(主人公)をその場にいた男性がお持ち帰りして無理やり行為に及ぼうとすると、実は彼女は全然酔ってなんかおらず「なんで無理やりセックスしようとしてんの?」と説教を食らわせるシーンから始まる映画。映画自体は主人公がなんでこんなことをするようになったのか、その原因となった過去の事件がふとしたきっかけから新しい展開を見せどうなっていくのか、という感じで進んでいく。作り自体はセンセーショナルな場面もあるし全体的にポップなトーンでもあるのでスリル系の娯楽映画かなと思っていたら、セリフの一つ一つと登場人物の描写が良く作り込まれた映画だった。大衆向けと見せかけて観た人に考えさせるといういい意味でトラップ的な作品だったと思う。

 

個人的には「男女間の(特に性交渉における)合意」という問題について考えさせる映画だったので、その点について書いておきたい。もちろん合意という点については異性愛だろうが同性愛だろうが関係なく重要なのだけれど、映画ではこの「合意」形成に潜むジェンダー的な権力関係に問題提起しているので、男女間としておく。

さて、「合意」というのは現代の家族関係やカップル関係の基盤をなす重要な観点だということをまずは抑えておきたい。この背景には、「家」や「結婚」という「制度」の重要性が低下していること、反対にそうした家や(婚姻関係に基づいた)家族を成す個々人の自由意志がより尊重されるようになっていること、などがある。虐待や家庭内暴力(DV)などの言葉が出てきた背景の一つにも、「家族というものをもはやブラックボックスとしておかない」という認識の広まりがある(ちなみにフランスでは「夫婦間レイプ」という言葉も出てきていて、婚姻関係にあること=カップル間におけるすべての性的関係への合意、という了解は成り立たなくなってきている)。

ここで一つ注意。日本では(まだ?)結婚や家といった慣習・制度の社会的重要性は比較的高いので、家族の基盤が「(家や結婚といった)社会的な制度による承認」から「カップルを成す個々人の合意」への移行している、とは手放しで言い難い。とはいえ婚前交渉は一般的になっているので、結婚してない男女間(カップルであろうとなかろうと)における「合意」の問題は当然出てくる。図式的に考えれば、特に欧米諸国と比べたときの日本(というか東アジア諸国)の特徴は、「家族」と「結婚」のつながりが欧米諸国では希薄になってきているのに対して日本では依然として強く残っている、という点にある(この典型的な指標は婚外出生子率、つまり結婚してないカップルから生まれた子供の割合で、これがヨーロッパだと30%とか50%だけど、日本だと2%程度)。これに「合意」の問題を重ねると、(結婚しているということが必ずしも一生家族であるということを保障しない)前者では合意はずっと問題になってくるのに対して、日本は結婚までは「合意」の問題はあるけど結婚後はよっぽどのことがなければそれを問題として提起しづらいというところだろうか(異論はあると思うし認める)。

 

ということで、関係を取り結ぶ個々人の間の「合意」というものが現代の恋愛・家族関係においてキーワードになってきている。これは逆に言えば、合意さえあれば基本的には何をしても許される(というか外野からとやかく言われる筋合いはない)ということでもある。ここで社会的な規範から逸脱しているのが、行為そのものであっても(俗にいう変態プレイというやつ)、行為を取り結ぶ個々人の社会的属性であっても(同性であるとか、年齢差がめちゃくちゃあるとか)、不貞とかに抵触しない限りは罰則を受けることはない。一つの例外は未成年者で、これは「合意」というものが個人の判断能力を前提にしている、という理由に拠っている。個人がある判断をするということはそのための自律した判断能力を持っていて、そのためにその判断に伴う結果の責任を受け入れる・受け入れざるを得ないということでもあるので、だったらそうした判断能力を持っていると言い難い未成年者に判断をさせたりその判断に伴う責任を負わせたりするのは筋違いだよね、ということ。これは飲酒・喫煙とか投票権とか運転免許とか、未成年者に対する保護・制限(保護と制限は表裏一体だ)に関する一般的な論理で、社会的に確立された考えだと言える。

 

ここでやっと映画に戻るんだけど、ここまで書いてきたことを踏まえると、成人した男女間の性交渉には「合意」のみが必要だ、ということになる。そしてここで映画が見せてくるのが、「(バーやクラブ、パーティーなどの社交場において)男性は女性の合意を得る努力をするよりも、女性を合意形成不可能な状態に陥らせて(つまり泥酔させて意識があやふやな状態にさせて)性交渉に及ぼうとする」という、ありがちといえばありがちだけどこうして見てくるといかに問題含みかということに気づかされる関係性である。

そして「相手を合意形成不可能な状態に陥らせた上で行為に及んだ」にも関わらずそれがレイプとして認定されない・されづらい背景として存在する、社会的なジェンダー構造が映画では浮彫りにされている。曰く、将来有望な医学生であったからとか、そうした場に行く女性に責任があるだとかである。ちなみに同じような事件が起きたときに日本でもよく言われる女性自身の責任については、合意形成能力(つまり意識)を失わせた時点で責任は問えないということを強調しておきたい。また、そうした場(バーとかクラブとか飲み会とか)に出向くこと自体について、女性の自己防衛の観点から個人的に注意を促すことと(まぁ普通に考えて家族とか友達とかがそういう場に出入りしてたら「くれぐれも気ぃつけるんやで」くらいは言うわな)、何か問題が起こった時に女性に責任(の一端)を問うことは全く別の問題である。これを同一視するなら最も安全な社交場は男性(女性)のみの社交場ということになるが、まぁ俺が独身なら参加せん。

ちなみに男女関係(の特に性関係)において「合意」を基盤とすることの厄介さの一つに、「合意が言語化されないことが多い(明文化なんて持ってのほか)」ということがある。これはあらゆる行為にその都度言語化された了解を取ることはロマンチックな雰囲気を阻害する、むしろあえて言語を通さずやり取りできることがカップル間の意思疎通が上手く行っていることの証明になる、と考えられているという事情がある。ただこれは合意のなしを意味しない。手をつなごうとして振り払われたときに「言葉で断られた訳ではないから断られた訳ではない」とかいう奴は悪あがき以外のないものでもないし、キスされたくないから顔を背けたときに「ちゃんと言葉でいってくれないと分からない」とかいう奴とはもう連絡取らなくて良い。経験談ではないです。だから性的関係において合意が明確でないということは基本的にないのだけれども、こうした「言語化されない合意に基づく性的関係」と「(一方が合意形成能力を失わされているがために)明確な拒否の存在しない性的関係」とを同一視しようとする非常にアクロバティックな努力がなされることがある。まぁでも合意形成能力を失わせた時点でこんなもの詭弁としか言いようがなく、問題は「言語化された明確な合意あるいは拒否があったかどうか」ではないことが分かる。ちなみにここまで書いてきて何度も伊藤詩織氏の事件が浮かんだ。

なお最近ではちゃんと言語化された明示的な合意の確認を取りながら関係を結ぶカップルも増えてきているようで、これは「合意」を暗黙的に成立させようとする従来の曖昧さ(とそれに付随しうる問題)を解決しようとする傾向だと思う。

 

最後に、ジェンダーというと男女の問題と理解されがちで、それは必ずしも間違ってはいないのだけれど、それだけでは不十分だということを指摘しておく(ちなみに「ジェンダー=女性の問題」という理解は男性への視点が抜けてるので不十分どころかこれは端的に間違い)。ジェンダーというのは基本的には社会的に構築された性差を指すので、常に男性VS女性という構図を取るわけではないし、そういう理解が必ずしも適切な訳でもない(むしろきちんと見ていった場合そういうケースの方が少ない)。社会的に存在する「女性(男性)とはこうあるべきだ」という枠組みを女性が内面化している場合もあるし、(現実に存在する制度上・慣習上の恩恵を受けながらも)そうした枠組みに疑念を抱いている男性もいる。こうした女性あるいは男性の中での立場の多様性も映画では描かれていて、それは学生時代はフェミニストでありながら玉の輿結婚を経て保守化する主人公の大学時代の友人や男子学生の言い分を女子学生のそれより重視する女性学長、主人公の両親で母親よりも父親の方が主人公の気持ちを理解していることなどに見て取れると思う。男性も女性も一枚岩ではない。なのでこの映画を「女性による男性への復讐劇」という図式に当てはめるのは、私にはやや浅薄な理解に思われる。

 

まぁ私は自分も男性なので、こうした(自分も含めた)男性の卑怯さとか根性のなさを映画を通してまざまざと見せつけられるのはきついといえばきつかった。英国紳士だったら「情けないぞ男性諸君!」と咆哮しているところだろう。英国上流家庭に生まれるべきだったか…!

 

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