れんしゅうちょう

人生ったらもう、書く練習なんだから。

〈OUT〉の前の周辺 書評:桐野夏生『OUT』、1997年

 

OUT 上 (講談社文庫 き 32-3)

OUT 上 (講談社文庫 き 32-3)

 
OUT 下 (講談社文庫 き 32-4)

OUT 下 (講談社文庫 き 32-4)

 

 

本作は小説家、桐野夏生の出世作であり、日本推理作家協会賞を受賞していることからも伺えるように良質のサスペンス作品である。といいたいところなのだけれど、そもそも私は普段小説を読まないし、さらにはその中で特に推理小説を好む訳でもないので、本作を推理小説という視点から論じるのは気が引ける。その代わり、読んでいてあることが気になったのでそのことについて書きたいと思う。

 

前置きとして、全体の話の流れはこんな感じだ。40歳過ぎの主人公で、夫と年頃の息子を持つ香取夏子は、信金の経理の仕事を会社の圧力で辞めることになった後、他に仕事が見つからなかったという理由で(しかし本当は家族との関わりに疲れたという理由で)、今は深夜の弁当工場でパートタイムとして働いている。寝たきりの義母と高校生の娘の面倒を一人で見る寡婦のヨシエ、内縁の夫と共に住みながら激しい浪費癖のため常に借金の返済におわれている邦子、夫と共に小さい二人の子供を育てつつも見た目はまだ美しい弥生の三人と夏子は、弁当工場でいつも一緒に作業を分担する良き仕事仲間だ。公式に編成されたチームではないけれど、工場で共に行動し、作業ラインのなるべくいいポジションをとってあげたり、互いの調子を見て役割を分担したり、何より勤務の前後に仕事の愚痴や他愛ない日常の会話を出来る4人はそれぞれにとって、弁当工場でのつらい労働を緩和してくれる大切な仲間である。

 

その内の一人、弥生は近頃、夫健司との仲が険悪である。健司は仕事が終わっても家には寄り付かず、上海クラブと違法バカラにハマり、新居のためにと夫婦で必死にためた500万円の貯金をすべて使ってしまう。そのことを知らされた弥生は激昂するも、逆に健司に暴力を振るわれてしまう。健司に対して 深い憎悪を抱いた弥生は、翌日、それ自体は本当にふとした言動をきっかけに健司を殺してしまう。我に帰った弥生は夏子に助けを求め、面倒見のいい夏子はそれを承諾してしまう。証拠隠滅のため死体をバラバラにして捨てることにした夏子は、金に困るヨシエを引き込むが、ひょんなことから邦子もそこに巻き込まれ、4人は共犯となる。

 

死体は、処理を面倒がった邦子が自分の担当したパーツを公園のゴミ箱に捨てたことから足がつき、殺人事件として世に知れ渡るも、死体の解体中自宅待機をしていた弥生はアリバイがあり、かつ健司が行方不明前に一悶着を起こしていた上海クラブと違法バカラのオーナー、佐竹は殺人の前科持ちだったために刑事の目は自然とそちらに向く。ここから過去の殺人が明るみに出たことによりクラブもバカラも失った佐竹、邦子の借金取りで邦子と弥生の関係になにかを嗅ぎ取った十文字、などといった人々が事件に関わってきて、夏子ら4人は、ある時は事件の嫌疑から逃れるため、ある時は金のために更なる泥沼にはまっていく。

 

こうして平凡な主婦であったはずの夏子ら4人は、精神的にも社会的にも、そして 半ば自主的で半ば強制的に、どんどん社会から〈OUT〉していくのである…というのが基本的な小説のプロットなのだが、ここで私が気になったのは、「〈OUT〉する以前に彼女たちは既に社会の周辺にいなかったか?」ということである。周辺、というのは、彼女たちが置かれた立場は、それぞれ異なるとはいえ、どれも自分一人で自立するには難しく、かつそうした社会の構造的な歪みを受けて鬱屈した日々を送らざるを得ない状況に置かれているということである。深夜の弁当工場は、そうした主婦たちや、この作品ではカズオに代表される日系ブラジル人移民労働者が集まる社会の周辺をその縮図として表していて、その描写は彼らが従事する作業自体の詳しい描写と相まって、そこに集まる彼らのやりきれなさがひしひしと伝わってくるようである。

 

彼女たちがそもそも社会の周辺に位置している、ということの証左として、例えばこの小説に 、誰一人として世間的な意味で普通の職業につき、それだけでやっていけるほどの収入を得ている女性は一人も出てこない。唯一の例外は信金に勤めていた頃の夏子くらいだが、その夏子にも同期入社の男性社員との間に200万円ほどにもなる給与格差が存在し、それを指摘するような夏子の公平感は社内から疎まれ、結局それは受け入れられない転勤の指示によって退職を半ば強要されることに繋がっている。そして夏子以外の三人にとってはそんな給与格差のある正社員ですら夢のまた夢であり、自分以外に引き受け手がいない育児や介護と両立でき、さらに昼間よりはいくぶん割のいい深夜のパートタイム労働が、考えうる限り最良の選択肢となっている。そのパートタイムの仕事でさえ、夫の収入がなければワーキングプアとして生きていかざるを得ない程度のものなのは明らかであり、それは寡婦であるヨシエの生活を通して描写される。浪費癖が強く自己中心的、そのくせ出来る限り他人を利用して生きたい、といった人物的には全く同情するところのない邦子にしてもこの条件は変わらない。作中で内縁の夫に逃げられた邦子は、借金に首が回らなくなってなりふり構わない行動を起こしていくのだが、その借金ですら40万円程度という、一般的な男性サラリーマンであれば、なりふり構わなくなるには「たかがそれくらいで」と言いたくなるような額である。しかし内縁の夫を失い、自身はパートタイマーである邦子にはその程度の借金を返すあてもないのだ。手っ取り早い方法を好む邦子は、とりたてて能力もない自分が大金を稼ぐ職業として風俗をも幾度か考えるが、容姿にコンプレックスを持つ邦子にはその道すらも用意されていない。

 

平凡な主婦というのは、「主婦」である限り平凡でいられるということなのだ、とこの作品を読むと思わせられる。だからこそ、彼女たち4人が事件をきっかけに社会からOutingしていく時、つまり彼女たちが社会的な平凡さを失っていく時、彼女たちは主婦ではなくなっていくし(もちろんヨシエは始めから寡婦ではあるのだけれど)、そうした状況が、始めは半ば強制的に、しかしもう一方では徐々に、やりきれない現状からの離脱、自由を求める彼女たちの意思となって主体的に選び取られてゆくのである。そして私たちは、そのことに対して彼女たちとともにある種の爽快感を抱くのである。この爽快感はしかし、周辺部での鬱屈の裏返しなのである。その結果が幸か不幸かは、またそれぞれの状況いかんによって変わってくるのだけれど、この作品が彼女の内の誰にも大したハッピーエンドを用意していない(とはいっても一人を除いて完全なバッドエンドである訳でもない)、ということは〈OUT〉の意味のなにがしかを物語っているように私には思われる。

 

さらにいえば本作品の内部に、彼女たちの置かれるこうした状況が、社会の構造の歪みによって引き起こされる困難であるという視点が全く出てこないのも興味深い。もちろん作者の桐野はそうした視点を持っていたであろうし、だからこそこうした設定を選んだのであろうが、本作に出てくる登場人物にはそのような考えを持つ人物は一人もおらず、そして こうした問題意識がないこと自体がごく自然に描かれている。作中で最も頭が切れ、男性との賃金格差を不公平と思う夏子でさえ、 そのことと自分を含めた主婦たちが深夜の弁当工場でパートタイム労働に従事していることが地続きの問題であるとは考えないし、自らも家庭では「主婦」として、家事の一切を自分一人で疑問も持つことなく引き受けるのである。週五日、時間としてはほぼフルタイムで働く彼女たちが語の厳密な意味において「パートタイマー」であり「主婦」なのか、などと問う人物はこの作品には出てこない。

 

1997年の刊行から20年が経って、夏子たちを取り巻く状況は変わったのだろうかという疑問が読後感として浮かんでくる。様々な制度や法律が施行されたとはいえ、彼女たちを取り巻く状況の基本的なラインはそれほど好転していないのではないかと思われる*1それでも私はこの20年の間に、少なくともこの本を読む私たちのまなざしが、彼女たちの置かれた状況に対して、それを他人事として我が身の安寧に胸をなで下ろしたり、あるいは仕方のない困難だと同情したりするのではなく、これは社会的な構造の歪みなのだ、と気づくことの出来るまなざしになったのではないかと、多少の願いを込めつつ思っている。

 

 

*1:状況が好転していない理由を一言で言えば、現状では「男性稼ぎ手モデル」の働き方自体が維持され続け、男女平等はこの働き方を女性も受け入れることでしか達成されないから、となる。その点についての知識は、古くは熊沢誠『女性労働と企業社会』、最近では筒井淳也『仕事と家族』、あるいは濱口桂一郎『働く女子の運命』などに詳しい。