れんしゅうちょう

人生ったらもう、書く練習なんだから。

ブルジョワ批判と少子化

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

このブログのエントリを「面白いよー」と知り合いに紹介してもらった。実際僕も興味深く読んでいたんだけど、少し違和感を感じるところがあって、せっかく教えてもらったのだから感想を伝えようと書き始めたら、その違和感について細かく考えざるを得なくなって、結果「だいぶ違う意見持ってたんかい!」というところまで来てしまった。笑 長くなったのでブログ記事としてここに載せるけど、元エントリまで遡るとたぶんかなり長くなることを始めに伝えておく。あとどうでもいいけど、元エントリでは「ブルジュワ」となっているけど僕は「ブルジョワ」を貫くということも伝えておく(書いてから気づいた)。

 

(遡るのが面倒な人のためにかいつまんで言うと)このエントリは、ある匿名の女医さんのブログ記事に対して書かれたものだ(というかそれについて分析したもの)。女医さんのエントリを要約すると、「私は医者のキャリアに疲れた。労働環境・条件や大勢の患者の態度は厳しく、常に120%を要求してくる。このような状況では、恋愛して結婚して出産して子育て、というような(世間が求める)一般的なライフコースは考えられない。職場の雰囲気も産休や育休に協力的ではなく、そもそも多くの医者のキャリアが実質29歳でスタートするので、自由な時間もそれを享受するための社会的・経済的安定性を得るのが遅すぎる。自分は男尊女卑でもミソジニー(女性嫌い)でもないけれど、日本の医療を支えるのは男性医師を増やす以外にないだろう」というもの。

このような悩み(あるいは皮肉混じりの痛烈な批判)に対して、このブログの筆者はより広い見地から現代人の置かれた状況の分析を試みる。その論旨を簡潔にまとめると、「現代社会で規範となっているライフスタイルと生殖という人間の根源的な営みは両立がほとんど不可能になっているのではないか(結婚、出産、子育てという家族軸と男も女もキャリア展開という仕事軸が両立しない)。そしてそれは、そのための社会・経済的条件が達成されるはずもない「ブルジョワ化」が進展しているからだ(だからそんな達成するはずもない「ブルジョワ」は批判すべきだ)」というものだと思う(「ブルジョワ化」が具体的にどういう状況を指すかはエントリを参照)。

 

そしてこのような見立てに対する僕の考えは、現状認識は大筋理解できるが、主張は賛同出来ない(というか主張がよく分からない)、といったところ。

この「ブルジョワ化」論なる議論の前提、つまり現代社会において(女性も働くようになったため)出産・子育てを行うには家庭と仕事の両立という問題に立ち向かわないと行けなくなっていることや、教育コストが増えてきていることが少子化の要因となっていることについては認識が概ね一致する。ただ現代社会といっても先進国間で差はあって、その空間軸での差について(おそらく戦後成長期という、より差の大きい時間軸との比較で)筆者は微々たるものだと捉えているけど、僕はそう思わないというのがまず一点。これは少し後で分かるはず。

 

さて、こうしたライフスタイルと生殖の両立困難性を説明する「ブルジョワ化」という用語についてだけど、とりあえずは「社会上層以外の一般庶民にまで上層階級の行動様式・規範が広がっていく過程」とでも定義出来るだろう*1。そしてこの「ブルジョワ化」に対する僕の考えを一言で言ってしまえば、「ブルジョワ化を批判するのはとても難しい」というもので、その理由はこれが機能的にも価値的にもある程度肯定出来るものではあるからだ。

機能的には、「ブルジョワ化」が人口爆発抑制の大きな要因の一つとなっているからだ。つまり、少子化が現代先進国に共通する課題であるとするなら、より広い歴史スパンで見たとき、その少子化に先行するのは経済発展に伴う人口爆発であるということだ。これは人口学的な傾向で、社会科で習った人口ピラミッドがピラミッド型からつぼ型を通って逆ピラミッド型になっていくアレだけど、ここで意識の転換としての「ブルジョワ化」が働かなかったら、多産小死の状態が続いて少子化云々の前に食い扶持をどうするのかといった意味での人口問題が生じてくる。これは古典的な「マルサスの人口理論」で、経済発展において食糧供給は等差的(2,4,6...)にしか増大しないのに、人口は等比的(2,4,8...)に増大するから食糧問題は避けられない、という問題だけど、世界的に見てより深刻なのは未だに少子化なんかよりこちらの問題だ*2。このマルサスの呪いとも言えるこの傾向から例外的に現代先進国が逃れている理由といえば、(生産力の劇的な拡大をもたらした農業革命ももちろん重要な要因だけど)人々の意識が「ブルジョワ化」して自発的に子どもの数を制限しているからだと言えるだろう。そしてこうした「ブルジョワ化」が進まないなら(つまり人々の意識が「貧乏子だくさん」のままで留まるなら)、中国の一人っ子政策みたいな人口抑制策を打たざるを得なくなるだろうけど、そのような露骨な人口介入政策には嫌悪感を持つ人が多いのではないだろうか。少なくとも僕は嫌だ。

そして価値的に見ても「ブルジョワ化」というのは、言葉の当否はともかく、その内実としては好意的に受け止めざるを得ない部分が多いと思う。というのは、「上層階級の行動様式や規範が社会全体に広がる」という現象の土台には、社会全体の経済・生活水準の向上と、社会階層移動の可能性が不可欠だからだ。特に少子化との関係で言えば後者が重要で、なぜ現代先進国の(特に中流階級と呼ばれる)人々が彼らの数世代前の様に子どもを7人も8人を持たず、たいてい2、3人に留めるのかと言えば、それは元の文章で言われてる通り(金銭的にも非金銭的にも)養育コストがかかるからだけど、それは裏を返せば教育を通じて社会階層を上昇する可能性が開かれているということだ。現場労働者の子が医者になっても良いし、農家の子が大企業の重役になってもいい(もちろんその逆の可能性もある)ということで、これは機会の平等を認めるメリトクラシー(出自ではなく本人の能力をその人が占める社会的地位を決める際の物差しとすること)の理念が、少なくとも理念としては認められていることを意味している。もちろん出自と後天的に獲得される能力を切り離すことは出来ないし、「実態ぜんぜん伴ってないやんけ」という批判は出来るけど、それでも現実へのそうした批判を可能にし、多くの人により望ましいとされる社会への指針となるという意味において、理念は重要な役割を果たしている*3。だって、どれだけ才能があってどれだけ頑張っても付きたい職業にはつけず、また決められた職業内での地位も決まっていて、自分の子どももその道を歩むだけというのであれば、ブルジョワの生活様式(単に別の可能性と言い換えても良い)を志向することも、子どもが少しでも良い人生を送れるよう手間ひまかけようと思う(結果持つ子どもの数を制限する)こともないでしょ?

 

こうして見てくると、そのタイトルとは裏腹に、少子化のみを念頭に「ブルジョワ化」を批判することは、図らずもそれが社会全体の生殖(人口問題)に果たす他の役割、そしてブルジョワ化と裏表の関係にある他の近代的な価値を考慮しないことになってしまう。
これが僕が「ブルジョワ」批判を難しいと思う理由だけど、「ブルジョワ」批判にはもう一つ危うい部分があると思う。それはこの「ブルジョワ」批判が人々のブルジョワ化を対象とした場合、このエントリがそこまで踏み込んでいない点、つまり批判のその具体的な水準や方向性がかなり時代錯誤なものになってしまう可能性が高いからだ。実際、「ブルジョワ化」した人々の意識を批判するのであれば、様々な理由から子どもを持たない選択をした人を責めることも、女性は家庭に専念しろということも、子どもを少なくとも5、6人は産むべしという価値観を押し付けることも、人々の社会階層移動の可能性を否定することも出来るわけだけど、そんなことは自らでっち上げた「伝統的家族」観に固執するウルトラ保守でもなければ不可能に近いだろう*4

もちろん、そんなことは明らかにこの著者が意図する方向性ではないだろうことは理解できる。だからこそ「ブルジョワ化批判(ブルジョワの社会的・経済的条件が伴わないのに規範意識だけはブルジョワ化してしまった人々への批判)」ではなく「ブルジョワ批判(その実現が恐らく不可能にも関わらず人々の理想であり続けるブルジョワという理念そのものへの批判)」なのだろう。しかしこの区別は明確にされておらず、論旨全体がいかに人々のブルジョワ化が進展してきたかについての議論である以上、このようなミスリードは起こっても仕方ないと思う。それに、理念そのものへの批判は展開されておらず、(理念そのものへの批判をすべきではないかという主張が結論)、これが僕がこのエントリに対してアンビバレントな態度をとる理由となっている。つまり人々のブルジョワ化について説明した後に、「悪いのはそんなブルジョワ化を引き起こすブルジョワという理想そのものだ!」と言われても、「(ブルジョワ化批判でなく)ブルジョワ批判の可能性を探すべきという認識は理解出来るけど、それだけだとその批判がブルジョワ化批判に変質しないという保証どころか、そもそもその批判の中身がよく分からん」となってしまう。まぁ、現状認識をクリアにしてくれたことがこのエントリの貢献であり、それ以上(具体的なブルジョワ批判)はないものねだりだと言えばそれまでなんだけど。

 

ただこう見てくると、「理念としてのブルジョワ批判」という大上段で抽象的な理解では、あまり現実への訴求力を持たないのではないかと思えてくる(ぶっちゃけどうしたらいいかよく分からん)。というのは、現実を少しでもより良くするための認識の仕方として、「ブルジョワ」という言葉での切り取り方が適切だとは僕は思わないからだ。

現代の先進国の人口政策(少子化対策)に求められて、かつそれが現実的に採用できるのは、人々が「ブルジョワ」化する以前のように6人も7人も子どもを作ることが規範になること(そしてマルサスの呪いに逆戻りすること)を夢見ることではないはずだ。求められているのは、この女医さんのエントリのように子どもを持つなんて考えられないと思うような人に子どもを持つことを可能にさせる労働条件の整備であったり、財布を見比べながら子どもを我慢している夫婦が子どもを持つことを躊躇う必要がなくなるように子育ての教育コストを(金銭的にも非金銭的にも)軽減して、合計特殊出生率を2強に保つ(回復させる)ことだろう。そうした負担の軽減では、一方では労働環境の整備になるだろうし、もう一方では世帯手当や(保育所を含めた)公教育の拡充といった社会的なバックアップシステムを拡充させることだろう(もちろんこの二つは深く絡み合っている)。

この二つ目は特に、介護や子育てといった、ほとんどの人がライフサイクルのどこかで経験し、現在社会ではその負担が増々重くなっているケアの領域の「社会化」と呼ばれるものだ。そしてケアの「社会化」はブルジョワというタームを必要としないにも関わらず、少子化への対策であるばかりか、ブルジョワの陥とも言うべき弊害を乗り越える試みでもある。それは、「ブルジョワ/非ブルジョワ」という図式で少子化を捉えた時に不可避となる経済・社会的格差の固定化を前提としなくてもよいということだ。こうした労働条件の違い、そしてケアの領域の「社会化」のバリエーションと程度が、先進国間の違いを僕が微々たるものだとは思わないことの背景となっている*5

 

勤勉に働くことが長時間労働とイコールであるわけではないし、医者のキャリアが29歳で始まって産休育休が実質的に取れないことが医者という職業にとって必然性のあることでもない。それはそれぞれの社会の、労使関係や家族政策など様々な要因の絡み合いによって歴史的に形成されてきたものであって、決して「ブルジョワ化の必然的な帰結」といったものではないと僕は思う。であるからこそ、それは日々の職場での営みであったり、労働組合であったり、政治参加であったりといった、様々な具体的で現実的な方法で変革できる余地を生むのだ*6。確かにそれは、大文字の「ブルジョワ批判」よりも根本的でなく、地道で面倒くさく、あまり華々しいものではないけれども。

 

*1:ちなみにこれはそんなに新しい概念ではなくて、ノルベルト・エリアスというドイツの社会学者が描く文明化の理論がまさにこの構図で描かれている。彼は、「文明化の過程」とは、上層階級の行動様式・規範が下層階級にまで広がっていく過程であり、彼の著作「宮廷社会」は、手を洗ったりテーブルマナーであったりという、現代先進国社会ではすごく当たり前だけど細かなことがらの発祥は前近代での「宮廷社会」であることを描き出している。ただ、宮廷とそれを打倒として台頭してきたブルジョワは別物なのであり、そうなると「ブルジョワ化」という概念自体の妥当性や範囲も問われることになってくるけど(そしてそれは厳密性を求めた場合には必要な議論でもあるけど)、脱線しすぎるので割愛。

*2:例えばSF映画のSeven sistersなんかを見るとこうしたパターンの近未来が描かれている。映画自体の個人的な評価としては制作が先進国目線なのと、ここで述べる「ブルジョワ化」の効果(効用)を考慮に入れていないことで片手落ちになっていると思うけど、それを除けばサスペンスありリアリティありのなかなか良い映画だと思う。

*3:教育機会の平等性が形式的に担保されているにも関わらず、実質的に不平等が維持されるメカニズムを明らかすることが戦後フランスで恐らく最も影響力の強かったピエール・ブルデューの一連の著作を貫く一つのテーマだ。ただ教育と格差というテーマについて日本の文脈で言えば、ブルデューの枠組みをそのまま当てはめるよりも苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』の方がより説得力が高い(あとこの本は単純に面白い)。

*4:ちなみに現代先進諸国において、こうした「伝統的家族」を固持しようとする保守的な家族政策を取る国々(ドイツや日本が典型)の出生率が軒並み低いことは家族社会学では良く知られている。「家族主義のパラドクス」とも言えるべきもので、簡単に言えば子育てや介護などのライフサイクルで生じる様々な負担を(家族の絆という美名と公的支出の削減という大義の下に)家族に担わせようとする政策が、一番その解体を進めているという皮肉である。

*5:というか、福祉国家論の基本的な枠組みではケアの問題を(すごく大雑把に言ってしまえば)「家族/市場/公共」に三領域で捉えているのに対して、「ブルジョワ/非ブルジョワ」は実質的に「市場/家族」の二領域での把握なので、説明能力が下がるのは当然と言えば当然ではある。こうした様々なタイプの福祉国家について類型化を行ったのがゴスタ・エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』であり(だからこの分野では基本文献となっている)、日本的な視点からの入門書としては筒井淳也『仕事と家族』を挙げられる。

*6:もちろん、徳の厚い温情主義的な経営者や優秀な政治家や官僚がこういった改革を主導する可能性もあるだろうけど。ただ、そうした人々と自分が違う立場に属しているのであれば、その人々と利害が完全に一致することなどないということは知っておいた方が良い。